私の生活はいつも、介助の方に支えていただいて成り立っています。
今日はそのスタイルから少し気がついたことがありました。
人は、というか日本ではと言った方がいいのか、最近はと言った方がピンとくるのかまだわからない部分が多いけれど、仲が良くなっても、あまり互いに気づいたことを言い合うことはないように感じています。
相性が合う人同士なら言いにくいことも互いのためなら言い合えるのでしょうか。
親友ならば言えるのでしょうか。
私には少しまだわかっていないところがあります。
私は今も残念ながら親友と言える出会いはありませんから、ここのところは未知なのです。
介助というお仕事でお世話になる方々は、私の身の回りのことをやっていただくことが仕事になりますので、私との関係は最初から契約のものになります。
私は「利用者」という位置で、関係が始まります。
なので、どんな関係を作りたいかということは、私次第になっててしまうところもあります。
必要なことだけ頼めたらいいのか、
和気藹々と関係を作りながらその時間を過ごしたいのか、
お互いのことを少しずつ話しながら深めていきたいのか、
私は、今はその時間きてくれた人と大切にしたいという気持ちが強くあります。数年前までは、理解してほしい、という気持ちが先行しました。
昔からそのことで失敗したり楽しかったりいろいろなことの中で過ごしてきました。
自分で自分のことをできる、介助のいらない生活を送っている人々の人間関係は、私が送っている日常生活とは本当に違う、と思ったのが今日の実感です。
あえて人に自分の心を見せなくていいということは、見せないということに慣れているということなのかなと思いました。
プライベートを自分だけで持つということ(家族がいるにしても、身辺のことは自分で行うわけですから)は、私の世界ではもしかしたら想像以上に他者との境界線がはっきりしているのかもしれないと思ったのです。
今日常として私が過ごしている毎日は、心のうちもほんのり見えてしまう距離にいつも他者がいるということ。それはこちら側ばかりでなく、関わってくださる方もそうだということです。
だから今私はとても人を理解しやすい環境にいるということなんだと思いました。
本当は突っ込んではいけないと思われること、そんなことを時には伺い、触れられたくないかもしれない心のひだに触れてしまったり、そんな日々の中で、
私はもっと気がつかなくてはいけないことがあるように思いました。
本当は、人は自分の心をそっと胸の奥深くにしまって、何もないように装って生きていて、私はそれさえ気がつかないほど自分本位だったような、そんな切なさと申し訳なさを感じた日でした。