2017年6月29日木曜日

いつまた、君と 何日君再来

向井理さんが企画の「いつまた、君と」みてきました

いつまた、君と 公式ホームページ

普通に生きている、たくさんの人のなかから、少しだけ一家族の生き方と人生を見せてもらった、と言うような印象でした。
人生は思うようにはいかないもので、他人に恵まれていると思われようがどう思われようが、自分たちの運命に逃げるところはなく、ただただ立ち向かって、生きて行くと言う生き様を観せてもらいました。

親戚との葛藤を描いたシーンでは、私は自分の若い時のことを思い出しながらみていました。
全く環境も厳しさも違うので、怒られそうですが。

「ここにいたらあなたは死んでしまう」

尾野真千子さんのセリフに、ああ、そう思って家族と離れる人は多くいるのかもしれないな、と思ったのです。どんな環境であれ、どのような関係であれ、この想いは共通のところがあるのかもしれないと感じました。

イッセー尾形さんは相変わらず存在感のある演技で、家族ってそうだなあと、なんか本当に、自分の気持ちと照らし合わせてしまうようなシーンが多かったと思います。

人は生きるために生きて行く、変な言い方だけれど、生きるということは、自分の心を殺さず、忍耐強く、誰かを愛し、愛してくれる人たちを悲しませないで生きると言うことだけでいいのかもれません。
何かを成し遂げるとかそう言うことは傲慢なことで、うまくいかないことも含めて自分の人生として受け入れ、今日どのように生きたいかと言うことを実現しようと努力するだけでいいのかもしれないのです。
そんなことを教えてくれた映画のように思いました。

多分、想いをわかってもらいたいなんて誰も思っていなくて、ただただ一生懸命に自分らき生きて、それぞれの思いが通じる結果になったけれど、期待してそうなったわけではないよなあって。それぞれがそれぞれを思う気持ちがいいように糸がほぐれたのだと思いました。

糸がほぐれずに悩んでいる方に、おすすめの映画です。

2017年6月22日木曜日

銀座

時間ができたので、銀座に。

知人のブログで「資生堂ギャラリー」を知り、無性に気になって、今日ならばと行ってみました。
思いのほか雨が降らない1日だったので。

丸ノ内線銀座駅から、まず東急プラザの地下によりみち。
その日一緒に行ってくれた方が(すっかりお世話になってしまいました。ありがとう!)、ワインの試飲できるお店を教えてくれました。

でも残念ながら今日はテイスティングできず。その代わり同じフロアにあるザ シティ ベーカリーで、一目惚れしたパンを。

そのあと、キリバコーヒーでコーヒーをいただいて、資生堂ギャラリーへ。
「測量|山」/「砂の下の鯨」吉田志穂展 をみてきました。

エレベーターで降りると、ギャラリーは静かな異空間でした。
見る位置を変えるとまた世界観が変わるような感じがしました。

中二階にも展示スペースがあって(階段なので私は無理)、その場所によってまた違った不風景になるのかなあと思いました。

時間があったのでうわさのGSIXへ。屋上のガーデンに。
印象的だったのは、一階エレベーターのドアが斬新なデザインだったこと。

それからはいつも行く交通会館でギャラリーをゆっくりみたりして帰ってきました。
ちょうど水墨画の個展をやっていて、綺麗な風景画を堪能しました。

銀座や有楽町はよく行くところですが、いつも決まったところしか行かなかったので、今日は少し行動範囲が広がった気分です。

いつも木曜日はプールで泳ぐ日なのですが、大抵は雨が降ります。
なぜかプールを休むと雨が降りません。

お天気の話は、木曜日に会う人たちとの間だけで通じる、木曜日のあるあるなのです。


2017年6月11日日曜日

今年の梅

炊飯器を使って、今年も梅を仕込んでもらいました。
商店街で一キロ380円で買った、2キロ分の梅。

35度の焼酎で一つ一つ洗ってもらい、ヘタを取ってもらって、てんさい糖を入れて炊飯器の保温機能で4時間あまり。
2キロ分は多すぎました。大きめのタッパーにふたつぶん。
一生懸命食べないと。
2回に分けて仕込んでもらったのですが、2回目のものは少し渋みが出ました。何がいけなかったのでしょう。

数日前には赤紫蘇のジュースも作ってもらいました。今年は甘味料を入れずに、穀物酢とポッカレモンだけで味を整えました。

商店街に出ると、いつも安く赤紫蘇が売っていて、みると買いたくなってしまいます。
冷蔵庫に、作ってもらったものがまだ残っているというのに。

冷蔵庫に二キロ分の梅をしまったら、今年の梅雨時の保存食作りは終わりです。
あ、あんずはつけてもらいたいな。それだけは買いましょう!!

2017年6月8日木曜日

かなった願い事

板橋に越して来て4年が過ぎたけれど、まだ叶っていないものがいくつかありました。

まず、近くの総合病院とつながりができていないということ。もともと病院はあまり好きでないので、具合が本当に思わしくないときしか行きたくないと思っています。それがいけないんですね。ひどく健康を害したことも幸いなことにあまりなく、この4年間でご縁ができたのは健康診断を引き受けてくれる、内科を兼ねた整形外科。主治医は以前住んでいた街の先生が引き受けてくださったけれども、苦手意識を持つと本当に総合病院にはいかなくなるので、一箇所でも知っておきたいという気持ちはありました。

それから、リフトタクシーを使いこなせていないこと。リフトタクシーは予約制が多くて、私のように計画性がない人間には縁ができない(使いたい時が突発的なために、早くから予約が必要なシストムとは折り合わないのです)のがとても残念に思っていました。それでも何度か利用してみたけれど、実用的に使えていないのが気になっていました。バスも電車も車椅子で乗れるし、元気な時はそれで済んでしまうのです。

最近友人で体を痛める人が多く、お見舞いに行くことも多かったこともあり、痛みの辛さについて気になっていました。骨折しても手術をしないことを選ぶ方がいたり。また、日常的に逢う方も体がきつそうだったり。とても気になっていたのでした。

最近少し体を痛める出来事があって、ちょっと大変だったけれど、色々と経験して、気になっていたことがほとんど解消されて、不思議な感覚です。ついでに気になっていた漢方系の薬局にもご縁ができました。リフトタクシー、その日に使える会社と縁ができたことも嬉しかったです。

情報は知っていても、実際に活用したり経験してみないと感触がわからないのだ、と改めて思いました。
総合病院も行きたかったところに行って来て、中の雰囲気がつかめてホッとしました(変な話かもしれないですが……)。

ついでに、その日は帰り道で、いつもはグッと我慢している、コンビニのハロハロを買って帰りました。
それもほんとに美味しかったです(^ ^)


それにしても変な願い事はしないことですね。願い事というものは、自分でも思ってみないやり方で叶うものなのかも知れません。
今度からはもっと考えて、ひねくれたり自己本位にならず、建設的な願い事をしようと思っています。


2017年6月5日月曜日

心の中の感情   

どんなに何度も乗り越えたと思っても、同じようなことが起こったりすることがある。

たとえば、どうしても受け入れられない部分を見せる人との出会い。
避けられないトラブル(例えば、話を聞いてもらえなかったとか、自分が正当だと思ったのにわかってもらえなかったとか。)
ある出来事が心のスイッチを押して、その瞬間その出来事から離れられなくなり、その出来事を引き起こしたと思われる人が謝ってくれるか、考えを正してくれるまで、怒りはえんえんと収まらない。

そんなことがあるのは、私だけだろうか。

例えば、私の場合だと、昔よく怒っていたシーンは駅が多かった。
駅で思うように対応されず、待たされたり乗車する位置を決められたり、行き先をホーム全体にマイクでインフォメーションされたり。
電車の車内で名前と住所を聞かれたり、何度も利用する駅でいつも障害者手帳を確認されたり。路線によっては電話でいつ乗るか前もって連絡となければならなかったり。

最近はこのようなことはほとんど感じなくなった。そして、このようなことが起きてもほとんど怒らなくなった。たまにムッとすることはあっても、そこに怒りがあって、私はまだこの部分でおこるんだということを自覚して終わる。日常生活でいろんなことに怒る自分はまだいて、時々疲れる部分はあるけれど。東京という場所に住んでいるせいもあるのかもしれないけれど、いい環境に暮らしていると思っている。

だからと言って、日常の怒りが完全に整理されたとは言いがたく、もう理解したと思っても、再びそのシーンが来た時、明らかに機嫌が悪くなっている。
最近も、ある地下鉄の駅でそうだった。

その人は、「この前も注意したのに」という憤りをぶつけてくる。
確かに、たしかに。その人は、ルールに則っている。

その人と会話をすると、私が若い頃、どんなに正義感ぶって 、「差別をなくす」ために怒り散らし、その怒りが目の前の人を困惑させて、あるいは意気消沈させていたかがとてもよくわかる。
相手を理解しようとせず、正しさをただ主張するコミュニケーションは、目の前の人を疲れさせ、気力を奪うだけなんだと、この歳になって人の怒りを受けとめてみて思う。


人が人を見る目線はそうは変わらない。
わかってもらおうという思いは、残念ながら相手には伝わらない。
思えは自分も、相手の心情をわかろうとはしていないから。自分の論理の中では、相手のことを理解している気になっているけれど。

自分の価値観の中で怒っていても、何も世界は変わらない。自分の怒りが増して、体を蝕んでいくだけ。

そもそも、なんでこんなに怒り続けるのか、本当は何に怒っているのか、本当に怒っているのは自分なのか。

そこに向き合って見ると、意外なものが見えてきたりする。



2017年6月4日日曜日

湯を沸かすほどの熱い愛

宮沢りえさん主演の邦画。
成増のツタヤは新作5枚で10日間1000円ちょいで借りられるので、時折無理やりいろいろ借ります。

この映画、良かった。。

体当たりの人生という感じ。残り少ない時間が描かれる映画って、どうしても最初からしんみりするものが多いけれど、この映画は本当に体当たりします、人生!!!という感じでした。
自分のことを説明しないというのがどんな感じなのか、人に愛情を注ぐということがどういう感じなのか、見本のように見せてもらいました。
そうだよね、何もいう必要はないんだ。
悲しいとか、苦しいとか、切ないとか辛いとか。
人はそれほど、人の話に興味はないし、理解することも難しい。
でも一生懸命生きて、大事な人を愛して、支えようとすることはできる。それが唯一、だれもができることなのかもしれないね。

最後のシーンは面白かった。ほんと、見て良かった。ネタバレしていいなら、思い切りストーリーを描きたい気分です。

新しい家での暮らし

 しばらくぶりの更新です。 9年間住ませていただいた古い家と別れて、春から新しい家での生活が始まりました。 小さな一軒家。築50数年だそうですが、全リフォームしてある家です。 南側には大きなひさしがあり、玄関からは出入りできませんが、キッチン側の大きな窓が地面から低い位置にたまた...