2015年10月28日水曜日

水のように生きる

最近読んだ本。人はなぜ苦しむのか、どうしたら癒されるのかを、わかりやすく、丁寧に、そして現実的に、日常の生活から向き合えるように、書かれてあります。
書画家の方が書かれた本なので、書画も見ることができます。
書道が好きな友人は、「書で癒されるね」と言っていました。

心に残っているのは、「お先にどうぞ」ということが書かれているところ。
人のために生きるということの具体的な方法が書かれてありました。

奪われて一番つらいと思うものこそ、ゆずれないものこそ、あなたが一番ゆずるべきもの。

そうか、そうだよな、と素直に思えました。

多分、読む人の置かれている状況から、びびっとくるところが違ってくるのかなと思いました。

苦しさを感じて、心の芯から癒されることを求める方々に、この本が届くといいなと思います。


 小林芙蓉 「水のように生きる」  あさ出版  1300円+税

2015年10月27日火曜日

ヤコブへの手紙(少しネタバレ)

フィンランドの短編映画。年老いた牧師さんと、恩赦を受けた終身刑だった女性のストーリー。
友人に以前から勧められていたのに機会が持てず、ようやく今日見ることができました。

なんだか泣けました。印象に残ったのは、牧師さんの
「この手紙は、神様が私に与えてくださったものだった」
というところ。人を助けるために、牧師を頼って届く手紙に答え続けてきたように感じてきたけれど、実は自分がこの手紙を必要としていたんだと牧師が気付くのです。

人はどんな人でも、どのような状態になってもこうして気づき、成長していくものなのだと、心に残りました。気づくためには、いつも謙虚にならなければいけないと思いました。

最後は本当に心にしみました。観たほうがいいといった、友人を思いました。

2015年10月18日日曜日

板橋区民祭り

昨日今日と、板橋区は区民祭りで、大山の文化会館界隈は大にぎわいでした。
2日間開催されるお祭り。板橋に越してから、いちにちは縁あって偶然通りかかることが多く、阿波踊りをチラッと見て帰り道を急ぐことをしていたけれど、今回はなんとなく2日間楽しんでみました。
昨日は広場で思わず佐世保バーガーを購入。久しぶりに食べて、美味しかった^ ^。
今日はお祭りの雰囲気だけ味わいに。
すごい人だったけれど、なかなかいいざわめきでした。

お祭りを遠目に感じながら、初めて入った喫茶店で一冊本を見ませてもらいました。ゆっくりできるところでよかった。町の方々のおしゃべりをなんとなく聞き流しながら、貴重なひと時を過ごしたのでした。

関係ない話ですが。昨日半分残しておいた佐世保バーガーを朝食でいただきながら、頭ん中では某番組で歌われていた「佐世保バーガー」の歌がかけまくっておりました。

エリン・ブロコビッチ

最近になってもう一度見てしまった映画。

主人公の女性はシングルマザー。不運なことが重なる中で、感情を爆発させながらも懸命に理性を働かせて物事に立ち向かっていく。情熱と親身に人を思う気持ちで、大企業との公害訴訟に向き合う。

ジュリアロバーツの迫力に圧倒される。これだけ真剣に生きることができたら、悔いはないだろうなと思う。
実話が元になっているので、ドキドキするけれど気持ちいい。

huluで見ていたんだけれど、2回観て、今これを書くために確認しようと思ってサイトを開いたら、配信が終わっていた。またしばらくしたら配信されるかなぁ。

2015年10月13日火曜日

人と暮らす

若い時は自分の家族を作りたくて、恋ばかりしていた。
私のそんな頃を見てきた友人は、恋をすれば?と時々言う。

でもよく考えてみると、自分の家族をつくりたい、パートナーが欲しい、という気持ちの方がいつも強かった気がしている。
誰かに心がときめく前に、前提があったみたい。
もちろん、恋はしていたけれども。

私の日常生活は圧倒的にまず介助の方といることが多い。
介助を仕事にして、私の生活を支えに訪れてくださる人たちと、日々一緒にいる。

長くお付き合いしてくださる介助者の中には、家族のようにちかしく思ってくださる方もいらっしゃるし、仕事の関係だけではない部分もたくさんある。

介助を日々受けながら生活を続けてきて、最近になって、
「ああ、これが『人と暮らす』ということかも知れない」
と思った瞬間があった。

私は体が中途半端に動かないので、生活のほとんどを来てくれる人に補っていただく。
体が動かないということは、頭の中で生活を考えているということ。自分では実行できないので、そこはその日一緒にいる人の出番となる。

頭の中では物事はスイスイ浮かぶし、自分の世界でしかないから、いざ人に頼んでみると思いもしないところでずれてしまう。

例えば銀杏の甘皮を向く手間は計り知れないことなんだと作業を見ていて思ったり、
にんにくのかわを向くと手が赤くなるということを、やってくださった方の手を見て初めてわかったり。

人にわかりやすく伝えていくことが未だにうまく体得できていない自分がいる。

ほんの少し前まで、障害がない人は、苦手とか特手だとか言ってもひと通りなんでもできると思っていた。
障害があって身の回りのことができない、の「できない」と、障害がないけれど苦手なことでできないの「できない」は、できないの意味が違うと思っていた。

ても実はそうではなくて、
介助の仕事できてくださる方々は、自分のできることを私にしてくれようとしているのだな、と思うようになった。

確かに私は障害があって一人では何にもできないけれど、来てくださる方も得手不得手を持つ方々で、そこを私はわからなかったんだなと。

ひとつひとつの日々の生活は、その日一緒にいる人との共同作業。もちろん自分の生活をしていくためにいろいろ伝えていくけれど、うまくことが運ばないことには理由があるみたいだとわかるようになった。

そこに今私がわからなければいけないことがあるのかも知れない、と。
もっとこじつければ、その経験をするためにこの体を今回いただいて生きているんだと。
何もかも自分の思う通りに生きていきたいのであれば、この体を選ばなくても良かったはず。自分で全てやればなにも葛藤は生まれないのだし。

うまくことが運ぶことだけを求めず、今日来てくださった人との時間を余すところなく味わう。感情も、考えたことも、全て。
その人は私の生活を補助してくださるために来てくださっているのだから、多分私が日々できることはそういうことなのかも知れない。

そう思うと、同居人がいなくても日々考えていくことはたくさんあって、一人暮らしではない生活を感じている。

人の暮らしを理解して支えるって、自分の価値観が強ければ強いほど難しいのではないかと時々思う。私は我が強いから、障害のない体をいただいていたとしても、今の性格では介助の仕事ができたかわからない。

それを思うと、いま思うような生活ができていることがとても愛おしい。

一人暮らしではないこの生活に、とても感謝をしている。
そして面白くて仕方ない。

これが恋をしない理由ではないのだけれど、わざわざ時間を作って会いに来てくれる友人たちとのひとときももらえて、私のキャパは満足しているみたいだ。


2015年10月11日日曜日

ふくろ祭り

池袋西口で、昨日はお祭り。よさこいが舞台で踊られているみたい。
芸術劇場の前は大にぎわいだった。

芸術劇場で、アウシュビッツの展示がされていることを新聞で知り、見に行った。杉原千畝とアンネフランクのことが展示されるということで。

たくさんの人に混じって、展示物を読んだ。4面の立体パネルは、歴史が終えるように一応順番が記されていたけれど、どこから読んでも良かったので比較的見やすかった。

改めて文章で追うと、差別的なことが心の奥まで入ってきた。

混んでいたせいもあり、残念ながら千畝氏のスペースはうまく近づけなかった。
実感したかったんだけれども。

悲惨なこと一つ一つも、救われることも、人が作っていくんだと改めて思う。
その時自分が何を思い、行動するか。
そればかりを考えてしまった。

外に出ると別世界。おいしそうな匂いが漂って、誘惑に負けそうになる。
各地域のブースもあって、ふと埼玉県寄居町の札をみつけた。

もう夕方になっていて何も置いていなかったけれど、いったい何を売っていたのだろう。
とても気になった。寄居は小さい頃過ごした場所だから余計に。
今日もお祭りはあるみたいだけれど、予定あるし、観には行かない。
小さな謎は、謎のまま。

2015年10月8日木曜日

どっちつかず

少し前から、私は自分の指針を見失っている。

心から望んでいるもの、叶えたいものを見失っている。


少し若かった頃は、すぐ夢が見つかって、それらを叶える努力をするのが好きだった。

一人暮らしも、恋人との生活も、仕事も、本を出すことも、大学を卒業することさえ、私の夢だった。
全て叶ってしまった時、私は次の夢を見つけられなくなった。

私は何のために生きてきたのか、わからなくなった。
なぜなら、私が社会に尽くせると実感できるものがないから。

夢が見つけられなくなった時、今は勉強の時期なのだろうと思った。とにかく本や映画を読んだ観たり、してきた。
そのまま今に至っている。

障害者関係の仕事を離れたら、私に仕事などなかった。
仕事を持っていると、人並みに尽くしているように感じられたのに。

そう、私は、人並みという状態が好きだった。社会に認められることが好きだった。そういう生き方なら、家族に認められるような気がした。社会に認められること、つまり家族に認められることが、私の望みだった。

私は社会につくしたくて仕事をしていたのではなかった。家族に認められたくて、人並みに扱われたくて、仕事にしがみついていた。

今の私には、スキルも何もなく、適職も探せられない。
世間的に言えば、障害もかなり重度らしいし。でも仕事は好き。働くのは憧れる。自分の欲望の残り香がまだある。

そんな思いがあるから、親しい人と話すと、仕事をしたいという話になってしまう。
彼女は私にいつも言う。
「例えば介助に来る人は、お金になるからあなたの介助に入るわけではないと思うよ。みんなあなたに会いに来るんだ。何もやっていないと思うかもしれないけれど、大事な何かをみんなにあげているんだから」
こんな風に言ってくれるなんて、嬉しくて毎回泣いてしまう。彼女の存在がとてもありがたくて愛おしい。

私はまだ自分の役割についてわかっていない鈍感おんなだけれど、一つだけ自覚できたことがある。
私が夢だと思っていたことは、私の欲望だったということ。
夢というのは、欲望であるのかもしれないけれど。
私は、私の欲望を叶えただけ。
誰かの幸せを祈ったわけではなかった。

こじつけだけれど、だから私にスキルは身についていないのだと思う。
謙虚さがないというのは、相手の幸せという視点がないということなんだ。

これからは、せめて大好きな彼女の幸せを祈りたい。
大好きな人を大事にしたい。
大事にするための何かをしていきたい。

ルールに怯えず、信念を持っていきたい。

まだ本当にどっちつかずだけれど、私は私を必ず見つける。

新しい家での暮らし

 しばらくぶりの更新です。 9年間住ませていただいた古い家と別れて、春から新しい家での生活が始まりました。 小さな一軒家。築50数年だそうですが、全リフォームしてある家です。 南側には大きなひさしがあり、玄関からは出入りできませんが、キッチン側の大きな窓が地面から低い位置にたまた...