少し前から、私は自分の指針を見失っている。
心から望んでいるもの、叶えたいものを見失っている。
少し若かった頃は、すぐ夢が見つかって、それらを叶える努力をするのが好きだった。
一人暮らしも、恋人との生活も、仕事も、本を出すことも、大学を卒業することさえ、私の夢だった。
全て叶ってしまった時、私は次の夢を見つけられなくなった。
私は何のために生きてきたのか、わからなくなった。
なぜなら、私が社会に尽くせると実感できるものがないから。
夢が見つけられなくなった時、今は勉強の時期なのだろうと思った。とにかく本や映画を読んだ観たり、してきた。
そのまま今に至っている。
障害者関係の仕事を離れたら、私に仕事などなかった。
仕事を持っていると、人並みに尽くしているように感じられたのに。
そう、私は、人並みという状態が好きだった。社会に認められることが好きだった。そういう生き方なら、家族に認められるような気がした。社会に認められること、つまり家族に認められることが、私の望みだった。
私は社会につくしたくて仕事をしていたのではなかった。家族に認められたくて、人並みに扱われたくて、仕事にしがみついていた。
今の私には、スキルも何もなく、適職も探せられない。
世間的に言えば、障害もかなり重度らしいし。でも仕事は好き。働くのは憧れる。自分の欲望の残り香がまだある。
そんな思いがあるから、親しい人と話すと、仕事をしたいという話になってしまう。
彼女は私にいつも言う。
「例えば介助に来る人は、お金になるからあなたの介助に入るわけではないと思うよ。みんなあなたに会いに来るんだ。何もやっていないと思うかもしれないけれど、大事な何かをみんなにあげているんだから」
こんな風に言ってくれるなんて、嬉しくて毎回泣いてしまう。彼女の存在がとてもありがたくて愛おしい。
私はまだ自分の役割についてわかっていない鈍感おんなだけれど、一つだけ自覚できたことがある。
私が夢だと思っていたことは、私の欲望だったということ。
夢というのは、欲望であるのかもしれないけれど。
私は、私の欲望を叶えただけ。
誰かの幸せを祈ったわけではなかった。
こじつけだけれど、だから私にスキルは身についていないのだと思う。
謙虚さがないというのは、相手の幸せという視点がないということなんだ。
これからは、せめて大好きな彼女の幸せを祈りたい。
大好きな人を大事にしたい。
大事にするための何かをしていきたい。
ルールに怯えず、信念を持っていきたい。
まだ本当にどっちつかずだけれど、私は私を必ず見つける。