2020年11月18日水曜日

罪悪感を手放す

 今月のヒーリングサロンでの個人セッションでは、前から気になっていたことに取り組むことにしました。

なんとなく、感じてはいたのですが、ここ何週間で明確に感じるようになったこと、


ある人と会うことで、数日後に体調を崩すことが多いと言うこと。


もともと自律神経が弱く、更年期になってからそれが頓着になって、ストレスがそんなにないと思われる日々を過ごしていても、頭痛が酷かったりする日もあって、

老化というものは、今までの感覚からでは判断できないことが多いものだと感じていました。


気づいたきっかけは、コロナ禍の中でつけるようになった、体温の記録を見た時でした。

その日にどこに行ったか、長い時間一緒にいた人は誰だったか、簡単に毎日記しているのですが、


どうも、あることの後数日後に、自律神経のバランスを崩しているらしい、ということに気がついたのです。


その日の夜セルフヒーリングに取り組むと、確かに、そのかたのイメージが。それも、私を恨んでいるというか、私をお嫌いらしいのでした。

思い当たるできことはありまして、私もその時分、今よりもっと人間的に浅はかで力量不足ということもあり、相手の方が求めることを差し上げることができませんでした。

その時のことは今も心に残っているのですが、どうにもならないまま今日まで持ち越してはいました。

気がついただけでも良かったと思いながら、その日の晩はセルフヒーリングで出来る限りのことは行ったのですが…。

私の感じたことは果たして本当だろうかという疑問が残りました。

見えない部分での人との関係は自分の感性だけが頼りです。確かに表面的にも嫌われているということは、そのかたも態度に出しているので理解できるのですが、実際自分の調子を崩している原因として考えてしまうのは危険なのではないかと感じていました。


個人セッションの日、事情を話すと、師は、ただ、その人がどんな人であるかを説明してくれました。

私が感じたことがあっているか間違っているかという答え合わせではなく、その人の性格を踏まえて、私がなぜ彼女の思い(念)を受け取ってしまったかという説明をしてくれたのです。


私はその方に対して、もしかしたら助けられたのに助けられなかったのではないかという思いを引きずっていました。それは罪悪感でした。


いろんなことを考え合わせると、本当に私にはできないことだったし、力量不足でできませんと答えることは、当時の私にとってできることでした。

なのに心のどこかでは、本当に何もできなかったのか。しようとしなかっただけなのではないかと、自分を責めていたところがありました。なのでそういう私の罪悪感とその方の被害者意識の波長が合い、私はその方の思いを受け入れてしまっていたのでした。


罪悪感というものは、相手の方を加害者にしてしまいます。無意識の中で。

今回、それを学びました。私がこのことに関係する思いを手放せば、日々の体調も改善し、相手のかたを意識しなくてもすみます。


私も体調を崩すなど思いもよらないところで支障が出てしまったけれど、相手の方も実は私の姿を見るたびに、気まずいことを思い出して嫌な気持ちになっていたのかも知れません。

本当は顔を合わせないで過ごすことができたら、お互いに良いのでしょう。


罪悪感といえば、昔勤めていた職場に対して、運営状態が大変なことを知っていながら退職してしまったことに罪悪感をずっと持ち続けていたようです。

障がい者福祉の分野は私の生活に密着していることなので、いろんな面で、話が耳に入り、一喜一憂してきました。


でも、今回の個人的な出来事が契機となり、ああ、この焦燥感も罪悪感から来ているんだと自覚できました。

私はもっと仕事ができたはずなのに、しなかった、してこなかった、しなくてはいけなかったのではないか、という思いは、

できなかった原因が力量不足や、不向きだったということを忘れて、もっとできるぐらいの力量があったのではないかと思いたい傲慢さが元になっているように思います。

罪悪感というのは、傲慢さなのかも知れないと思いました。


私は、仕事をやめた時、自分の力量の現実を知ったのでやめたのです。

その感覚に嘘はなかったのです。当時悪化した体調も、それを教えてくれていました。


私は罪悪感を手放しました。そして、自分にできることをせいいっぱいやり続けようと改めて思いました。




2020年11月9日月曜日

もらっているもの

 私は、今でも、経済活動に乗れなかった自分の生き方を心のどこかで卑下し、引け目を感じているようです。

もともと、仕事をもつことで自分を保っていたところもあり、全て手放した時は、もしかしたら違う道にたどり着くかも知れないという淡い期待を抱いて、就職活動をしたりしました。

なにか、誰かに「がんばっている人」と思われていないと、自分がなくなってしまうような気持ちになったりもします。

気持ちというものは、弱いものだと思います。

このような気持ちが湧いてきてどうしようもない時は、文章を書いてみたり、なにかチャンスが転がっていないかとネットにはまって落ち着かなくなったりすることもあります。そうしながら、今の私ができることは何か、改めてまた振り返るのです。

最近そんな中で気がついたことがありました。

ああ、私が今いただいているものは、福祉手当等の生活費だけではなく、介助の方への人件費も入るのだ、と。


全てが、私が生きることに対する報酬なのだと、ふと思えたのです。


仕事でもらう報酬は我慢料だという話を聞くことがあります。

忍耐が必要な事態を、お金をいただいて経験させていただいているという意味でしょうか。

私はどうしても、経済活動をしていない自分を責める気持ちがありましたが、全てが私の報酬なんだと思いついた時、

ああ、それならば日々の生活でベストを尽くしてみよう、

と心から思えたのです。

報酬をいただいているということは、私も相応の物を提供する必要がある、


変な考え方かも知れませんが、そう考えた時、自分が生きる時にいただいている全てのものに意識して、ありがたく思えたのです。


今の私の力量でできることは、とても小さなことかも知れないけれど、私なりのベストで生きてみようと、思えました。

いただいているものに対して、それがなくなるかも知れないという不安や、もらい過ぎてはいないかという疑いや、もっと違うものが欲しいという思いを、うまく整理して、


今日の分の自分なりの働きをすればいい、やっとそう思えました。

そう、その役割は、私にしかわからないことでいい、誰かの期待通りにならなくていいし、誰かに認められることを欲しなくていいのです。

大事なことは、私らしく行動すること。私の愛を表現すること。それだけ見失わなければいいのです。

生活が変わっていくのならば、仕事が変わっていくなどと思えばいいことでした。

思えばいつも一つ一つ整理しながら、四半世紀を超えて地域で生活させていただきました。


今の私の生活は、思い起こせば一番穏やかです。この穏やかに過ぎていく時間を、大事に生きていきたいと改めて思いました。


2020年11月8日日曜日

見失った時代を振り返る 1

 本当はコロナ 禍は落ち着いたわけではないけれど、以前より落ち着いているように見えるこの頃です。

日常生活の中で+アルファの部分であった、動的なボランティア活動が難しくなり、空いている時間は、動画鑑賞と本に依存しています。

時折Zoomで友人と話したりできているのはありがたい限りです。


この数ヶ月、身近な人との関係を見直す時期でもありました。

なぜ自分は今の家族と巡り合ったのか、

自分は家族の中でどんな役割だったのか、

私はその役割が果たせたのか、そしてどんなふうにこの先を生きていけば良いのか。

霊的心理を学び続けている身である立場から、ヒーリングサロンの時間をいただいて、少し振り返る作業をすることになりました。

私の生きてきた過去性の多くは、いろんなものを背負ってしまう結果になったものが多いのですが、今生で家族になってくれた人たちの中にも、私と同じような過去を持ったり、私と同じような課題を残してしまったりした人たちがいるようです。

特に私は、遠い昔の過去生の中で、ただ自分の権力にしがみつき、周りで世話をしてくれる人を人と思わずただふんぞり返っているある人物の生き方に憧れ、その生き方を後の人生で追求し、想いを達成してしまったことがあったようなのです。

その人生で実は多くの人を苦しめた上、その後もその思いはネガティブエレメンタル(エゴイズム)として私の中に残り、たくさんの人生を狂わせました。

今回私は多くの人との出会いに恵まれて、物事をネガティブに考えないことと、思いやりのありかというものを学びました。多くのことを知った今、私欲に流されたり、自分のことばかり考えて行動することはやめようと決めています。

その目で見てみると、未だ気付けずに自分が正しいと信じて、周りの思いに気づかないまま生きている人が哀れにも見えます。いつか気がついた時、その人はきっとひどく悲しむと思うからです。

自分がどんなに周りの人を苦しめてきたかということを自覚した時は、とても苦しいからです。そんな思いをこれからいつか自分から飛び込んで感じる日が来るんだと思うと、その人に対して複雑な思いになります。

でも私にとっては、その人たちは身近な存在であり、そういう利己的な考えを持つ人を身近かに感じることがどんなに辛いかという経験をくれた人たちでした。なかなか得られなかった感情を今回味わうことができました。

私も、誰かにこのような思いを与えていた、このような苦しみを与えていたと気づかないまま、毒を吐いていた時代がありました。人の意見を耳にせず、気にかけてくれた人を悲しませながら、自分本意に生きていた時代がありました。

そのことを忘れてはいけないと思いました。

何千年の魂の旅の中で私が気づけたように、いつかみんな気がつく日が来るのです。誰かの声が心に届き、自分から自分を見直せる日が来ます。

今はその意味も信じられるのです。


いろんなことを知ったとしても、日々の課題が消えたわけではありません。  

一日一日を、どう生きるかなのだと、やはり今回も思いました。


何度も悩み迷い、何度も思い出し確認する、その繰り返しの中で、いい部分が強化されていくといいのですが…。






新しい家での暮らし

 しばらくぶりの更新です。 9年間住ませていただいた古い家と別れて、春から新しい家での生活が始まりました。 小さな一軒家。築50数年だそうですが、全リフォームしてある家です。 南側には大きなひさしがあり、玄関からは出入りできませんが、キッチン側の大きな窓が地面から低い位置にたまた...