2019年4月17日水曜日

花冷えの日々

今年は桜が長い期間咲き、石神井川がとても綺麗な十日間あまりでした。

冬のような気温の毎日は、とてもこたえましたが。

少し気持ちがだれて、半月ほどどう考えながら暮らしていたのか、何も書き留めることもないまま過ごしてしまいました。

ソメイヨシノが満開のうちに友人が来てくれて、板橋に越してきてから初めてちゃんとしてお花見をしました。といっても川沿いは宴会する場所は難しいので、自宅で盛り上がりました。楽しい時間でした。

石神井川は魚はいないのですが、微生物はいるらしく、カモやシラサギが休んでいたりします。
友人と過ごしたこの日も川面にコサギのつがいが優雅に泳いでいました。つがいで観るのは初めてだったので、貴重なひとときでした。

コサギのすぐそばを鴨たちが泳いでいたのですが、一話の鴨が何度も水面へのダイブを繰り返していました。その度にバシャーンと大きな水音が立つのですが、コサギにはどうでもいいことのようで、我関せず、動じず、という感じでした。
鴨の水面ダイブ、求愛行動でも威嚇行動でもないようで一体なんだったんだろうと今も時々思い出しています。

お花見から数日後、知人と、同じ川沿いの道を歩いていると、ジョージア(グルジア)のワインを売っているご夫婦とお会いしました。
試飲をさせてくださったのですが、すっきりとして美味しいワインで、思わず買ってしまいました。
ジョージアはワインの発祥の地で8000年の歴史があると伺いました。今までジョージアを意識してワインを買ったことはなかったなあと、思いながら帰りました。

最近はアルコールを飲まない生活を続けていたので、久方ぶりに少しいただいたらものすごく眠くなってすこし眠ってしまいました。
でも頭も痛くならず、美味しいワインでした。

2019年3月19日火曜日

1日のみの再来

昨日、朝起きると、わずかな異変が…。

昨夜少し食べた後、口を輪ゴムで結んでいただいたピーナツの袋に小さな穴が開いて、中身が溢れています。

これは間違いなく、危険信号。
あの方達の再来です。

今回は、何かの間違いとか、もしかしたら元から穴が開いていたかもとか、そんな楽観視や現実逃避をやめて、

数年前に塞いだ穴を一つ一つ点検してみました。

そう、あの方達は入れる穴から確実に入ってきて、餌場を認識するとどんどん夜中に入ってきます。

よく見ると台所のジャガイモもわずかにかじり跡が。

そして一番要だったシンク裏の穴を塞いであったものが動いていました!!


よかったよ!!
早期発見、早期対処。
穴を頑丈に塞いでもらって、今朝はおかげさまで痕跡なしです。

数年前に初めてこの方達に襲われた時は、二階には住人の方がいらして空き室ではありませんでした。
誰か二階に住んでくれないかなあと、いらぬ願いをめぐらすこのごろ。
最近少し音がうるさいと思ったら、来てたのね。ねずちゃん。

嫌いじゃないのよ。問題なのは衛生面なの。
それに黙って入ってくるし。一応この部屋は私が契約した部屋だから、ねずちゃん、あなた方はうちに入ると不法侵入になるのよ。

住む世界が違うから、わからないのは仕方ないけれどね。



1日だけの対処でおさまって、本当にありがたかったです。必死で私の言葉をきいてくださり、穴を埋めてくださったかた、本当に感謝です。ありがとうございました。

2019年3月17日日曜日

一隅を照らす を読んで

神渡良平氏の本「一隅を照らす」を読みました。
安岡正篤という人のことをもっと知りたくて図書検索をしていた時に出会った本です。

読み終わった後に感じたのは、著名な方々も道に迷うことが多々あり、そんな時には指針になる方を探し当てて、その教えや考え方を享受してもらう時間を必ずとるという事実でした。

人は迷うのだと思いました。どんなに成功したと思われる人でも、人は迷い、尊敬できるしを探し、その言葉に何かを気づき、前に進むのだと。

教えを請う心、その教えに自分の考えを照らし合わせ、何か大事なことに気づいていくというプロセスは、自分を省みる力が備わっていないとできないことなのかもしれないと感じました。

私が師の元に通い続けることは、自然なことなのだと、この本を読むことで教わりました。

自分を振り返ることができる人でありたいと思い、そして、なかなかそれができていない時に、言いにくいことを伝えてくださる人を、大事にする人生を送っていきたいと思います。



2019年3月5日火曜日

お世話になっている方々のサイト

あることがきっかけで、遠隔ヒーリングのサイトやこのブログのレイアウトなどを見直しています。
内容までは見直す度量がないので、形から相変わらず入っています。

今のブログはスマホでも観られるように簡単に設定が変えられるものもあり、このブログも遅まきながらそのように設定しました。

でもそうしたら、パソコンでは見ることのできるサイドのリンクがスマホでは観られないようなので、応急ですがこのページにリンクを貼っておこうと思いました。

以前から現在までの間にお世話になった(もしくは現在もお世話になっている)方々です。拙い紹介文で失礼いたします。





この2つのサイトは、10数年前に出会い、今もとてもとてもお世話になっているヒーリングサロンのサイトです。時々私のブログで書く個人セッションの体験談は、このサロンでの体験です。このサロンで開催されていたスクールで、私はとても多くのことを教えていただきました。ブログを読ませていただいたりと、ネットを通しても変わらず勉強させていただいております。




介助の方の派遣をお願いして、ずっと生活を支えていただきお世話になっている、文京区にある自立生活センターです。一時期はお仕事をさせていただいたこともありました。



ある方からのご紹介で、マイプロ道場という講座を受講しました。その時間をいただいたことで、違う視点をいただきました。中小機構が運営している「学ぶ場」です。




写真家 矢部朱希子さんのサイトです。以前介助を通してお世話になり、ポートレートもとっていただきました。さりげなくシングル(私の個人的なサイト)に載せている写真は、この方にお願いして撮っていただいたものです。



カラーセラピスト、黒滝清香さんのサイトです。介助を通してお世話になり、カラーセラピーやフェイシャルをしていただいたり、とても素敵な時間をいただきました。



文京区に住んでいた頃にみつけて、ずっと通わせていただいた美容院です。引っ越すことで後が遠のいてしまったけれど、板橋に越してからも数年間は通わせていただきました。いつ伺ってもとても気持ちよく対応していただきました。



東京に越した時に友人が教えてくれた歯医者さん。臆病な私を受け入れてくださった歯医者さんです。障害の特性を熟知し、安心感の中で治療をしてくださいます。




板橋に越す時にひとかたならぬお世話になった不動産屋さん。「希望をすべて教えてください」と言ってくださり、本当にその希望に沿った家を見つけてくださいました。


東京に住む前から、ずっとお世話になっています。からだの不調は、自然堂さんに相談に乗ってもらうことが多いです。障害のことを熟知し、親身に考えてくださいます。

エンジェルスマイル&百歳王写真館

写真家 小野庄一さんのサイトです。この方の富士山の写真が好きで、家に飾らせていただいておりました。






2019年2月27日水曜日

道草

映画「道草」を、新宿のK`sシネマで観てきました。


知的障害と自閉症を持つ人の自立生活。その人自身の日常の様子や、介助で関わる人たちとの関係性が、自然にえがかれていました。
登場する人たちの人となりがすっと入ってくるような映画で、いい映画だったなあと思いました。

固定観念のようなものがないというか、信頼関係を感じるというか、映像にするときに一人一人の個人を自然に残せるのは、映す側の視野の広さなのかも知れません。

伝えにくいことも映像にこめ、ありのままに生きていくということを問いかけてくる感覚を覚えました。

季節の鳥や木々や花の様子もうつくしく、映画の登場人物と一緒に大きな夕日を眺めたりしている気分になりました。

私も昔自立生活センターの職員として働いていた頃がありましたが、私自身はとても視野が狭かったなあと改めて感じました。あの頃は自分にビジョンがないことに悩みながら活動していたけれど、そしてうまいようにできないことにいろんな感情を味わっていたけれど、それはきっと自分自身のことで精一杯な部分が多かったんだろうなって。。

立場が違うそれぞれの人が意見を交わしながらの年月を積み重ねて、今の道があるんだと、自戒を持ってかんじました。

私は私のやりたいことしかできないのだなあと、思いました。


K'sシネマでは3月8日まで。10時20分の上映です。
平日に行ってきましたが、かなり混んでいました。車いす席は2つで、事前に連絡すれば座席を外しておいて下さいます。

2019年2月26日火曜日

東京都美術館の特別鑑賞会

東京都美術館では、企画展の各機関のうち一日だけ、障害のある人のための特別鑑賞会を催しています。
東京藝術大学とコラボした、とびらプロジェクトの活動なのだそうです。

数年前から友人に誘われて、毎回応募し、抽選に当たると出かけています。

開催されるのは期間中のある月曜日。友人は、くじ運が強いらしく毎回当選しますが、私は2回ほど外しています。

今回は江戸絵画。色使いも面白く、大胆な作品もあり、すっかり楽しみました。

毎回、タブレットを持っている方々が要所要所にいらっしゃって、お願いするとタブレットの中の絵画を大きくして見せてくださいます。


数回行われる10分ほどの企画展示に関するトークも、わかりやすくていいなあと思っています。

今回は友人とは時間帯が合わず、会えませんでしたが、江戸絵画を満喫して、いつものように楽しむことができました。

2019年2月11日月曜日

会話のしかた

私はいつも日常の中で失敗することが多いです。
あまり調子よくない時は特に、気づかないというか、思いが及ばないというか。

最近も、思わぬところで気がつかず、相手の方と気まずくなりました。


そのときに、気がついたことがありました。

私は普段、無意識に会話をしていることが多かった、ということ。
相手の方の言葉に反応したまま、反射のように答えていたみたいです。

なぜそれではいけないのかというと、自分で感じたり考えたりする時間を取っていないのがまずいのです。
もっというと、意識を持って感じたり考えたりする時間のことです。

相手から投げかけられた言葉に、反応したまま何も感じずに、反射的に返してしまう言葉は、私の心が入らないものになってしまうのだなあと。

なにも感じずに、という言い方には語弊がありました。
感じていることを意識しないまま、という言い方が正しいでしょうか。

言葉のやり取りはとても難しいことですが(そして語彙の少ない私はここでどう書いていいかわからなくて今回は意味不明の文章です。すみません)、たとえどんなふうに話しかけられても、気持ちの反応で言葉を返すのではなく、なにを感じたのがをせめてわかった上で、話せるようにならないとなあと思ったのです。

そうしないと、思わぬところですれ違います。これは実感しました。

言葉は、相手を理解するために使い、自分の愛情を表現するために使うのですね。
言葉を伝えるって、本当に難しいです。



2019年2月5日火曜日

私を離さないで 原作を読んで

図書館に予約した本がすぐに来たので、読んでみました。

思っていたよりも優しい語り口で、これは翻訳者の方が良かったのかな、と思いながら読み始めたのですが、静かになぞを解くようにあっという間に読み終わりました。

なぜこんなに読みやすかったのだろうと、今考えています。
施設とか、隔離された世界の生活というのは、ある程度私には理解できる世界観だったのかもしれません。もちろん置かれた環境はまるっきり違うのだけれども。主人公たちの生活感が溢れていて、細やかで入り込みやすい世界でした。

他人の世界観に立つということは本当に難しいことなのですね。確かにそこにある命を、一方の側からは違うものにしか見えないということと、本人たちの生という当たり前の営みが大きくずれている事実が、とても悲しい作品でした。

丁寧に丁寧に描かれたその世界は、どんな環境下でも、どんな目論見があるところでも、生を受けたものは生きようとし、命は輝くということ。人がどんなふうに思おうと、たとえ医学や科学の発達でできていく命であっても、なんら変わりはなく私たちは一緒の世界を生きている同じ重さの命であるということを、言いたかったのかな、と感じました。

片方しか見ようとしなければ物事はその方向でしか見えず、この小説に出てきた主人公たちは残酷な道を行かなくてはいけないばかりなのだけれど、できれば多くの人に、この架空の世界は環境を変えて隣で起こっているかもしれないということ気づいて欲しいと言われているような気がしました。
架空だからこそ非現実な世界として最後まで読めるけれども、人は見知らぬ他人の命よりも見知った人の命を優先し、見知らぬ相手にも自分と同じ感情や思いがあるということを忘れてしまう中に生きているということを、そうやって世界が動いている事実を知らなくてはいけないのだと感じました。
自分の命も他者の命も大切にできる世界を作るために、小さな私の世界をどう生きたらいいのか、今私はすごく気になっています。

物語の終盤に出てくるセリフ、
「あなたたちがいつも怖かった」
エミリ先生の中にあった恐怖ってなんなのだろうと、今考えています。
本来持たないだろうと思われている人たちに心があると分かったとき、人が感じる恐怖なのでしょうか。それとも、物語に流れる架空の設定の中で、自分たちがその子供達を教育することで何が起こるのかという先行きの見えなかったものに対する恐怖なのでしょうか。

命を区別する側は、区別の理由を持っています。エミリ先生の感じた恐怖は、その理由が成り立たないという事実を本当は知っていて、その事実を大事に生きることを選んでいない自分が見透かされているかも知れないという恐怖でしょうか。本当に真の人間らしい愛を持った人間になれないのは、目の前の特別な子供達ではなく自分たちの側なのだということを、誰かに見透かされてしまわないかという恐怖なのでしょうか。

優しい文体でこの世界を表すなんて、本当にすごいことだと感じました。


受け身の生き方をやめるということ

私は、どういうわけか無意識に気を使ってしまう人に時々出会います。
関係性が悪いわけではないのに、その方と会うときは少し気持ちが張って、今日はどんな様子なのか妙に気になってしまうのです。

昔から、同じような雰囲気のする方との関係性は、緊張します。

その方は、私の持ってないものを持っているように見えます。
すごく人生を楽しんでいるように見えます。

それなのに、なんだかいつもお疲れのような、そんな雰囲気を感じてしまうと、今日は機嫌がいいのかどうか、気になってしまうのです。気遣う方向が外れちゃうといけないことをしたような、罪悪感が回ります。

最近、知人と話していて、そういう自分に気がつきました。会話に出るまで、意識なく、ただ私が察しが悪く、何か気がつかないことが重なっているから落ち着かないのだろうと思っていました。その日によって気分や体調が違うことは当たり前のことだし、それを毎回受け入れられない私の心が未熟なせいで気になるのだと思っていました。なので、変に気を使う自分を自覚できたとき、ハッとしました。

なぜ気になってしまうのか、なぜ相手の方の機嫌をとりたくなるような衝動を感じてしまうのか、少し考えてみました。

すると、自分の、人に対しての関係作りの課題がみえてきました。

数年前まで、私は精神的に本当に子供で、自分よりも精神的に大人の人としかうまく関係性がつくれませんでした。つまり、相手の方が理解してくれなければ、私からは相手の方を理解しようとすることができなかったのです。

最近は、自分ももし子供を産んでいたのなら成人するぐらいの子供がいるような年齢となり、年齢差を感じる方々と出会うと、まず話を聞いてみたいという気持ちが生まれるようになりました。これはふしぎな心の変化でした。

出産もしてなく、結婚もしなかったし、若い人と多く接する仕事の縁もなかった人生でしたが、少し目線を変えることができたのは、ヒーリングサロンでいただいた一つのアドバイスも原因の一つだったと思います。
「あなたが親の目線を持てば、世界中の人があなたの子供になる」
この言葉は今も心の中に生きていて、ことあるごとにはっきりと聞こえてきます。

あまり経験のないのは、子供の部分を持つ大人の方とのおつきあいです。
つまり、私の持っている部分と同じようなものをもつ方々と関係を深めることが難しいのです。

そう、書いてみて気がついたけれど、子供大人だったのは私自身でした。分別ある能力を持った大人と認めて欲しくて、できることをアピールしてみたり、知識をさらけ出したりしますが、自分の感情をコントロールすることもできないで、周りの人々に気を使わせてしまう、自分はうまくできていると思っているので、不合理なことに出会った時に相手がどうすれば自身が犯したミスに気がついてくれるのかと、そのことばかり考えてしまう、この考えのあり方はまさしく私自身のことでした。

そうすると、そういう私のことを周りの方は理解しようと思いやってくれて、付き合ってくれたということになります。私に合わせてくれたということです。

今私が悩んでいる人間関係は、私が多くの方からいただいていたものを恩返ししていけばいいということなのかもしれません。
それが私の、人を思う経験の一つになるのかもしれません。

今から思うと、その頃の私は、実は人生を自分の意思で生きていませんでした。
このブログに何度も書きますが、人並みに扱われる人生を望んでいただけで、人並みに考えられるように努力して生きることに欠けていました。

これは今だからわかることです。その頃の私は、人生を積極的に生きていると思っていたし、思ったように生きられる自分に満足していました。無意識の怒りは社会に向けられていました。

子供大人、つまり、まだ自分を見出せてない頃は、無意識に自分をアピールしたり、周りを責めて自分の正当性を確かめたくなるものです。自分を気遣ってくれない世間はなんと心が狭いのだろう、未熟なのだろう、私の言葉がなぜ理解できないのだろうと思ってしまいます。
私もまだその部分を捨てきれていないようです。だから冷静にことが見られないのかもしれません。

受け身の人生をやめるということは、自分の生き方を見直す力を養うということなのかもしれません。改善点は自分にあり、世間にはアイデアを提供したりリクエストすることしかできないのかも知れません。自分の心を改善していこうとする意思は、生きる目的を見つけていなければ難しいことかも知れません。

その時の会話で忘れられない言葉があります。
「経験だけでも意味がない」
「でも、多くを経験しないと、自分を振り返る力がつかない」

そうですね、今私が「自分がいたらない」の自覚できているのは、多くの経験の中で「失敗」を感じ、「恥」を感じ、自分ができていないということを、ある日、理解できてからだと思います。その友人もそう、だからこの話ができたし、そこに信頼を持っています。

そう思うと今の私の生活は、私が学ぶ必要があることが、形を変えて随時起こっているということになります。
そして、そのことを会話で確認できる友人に出会えているということも、私が感謝していきたい事実の一つなのだと感じています。


2019年2月2日土曜日

私を離さないで

カズオ・イシグロ氏の原作「私を離さないで」。映画版を観ました。

1967年の架空の世界設定の解説から始まるこの物語、たんたんとすすむ話の中で、やりきれない思いが心の中に広がりました。
隔たりがあるけれど、変わらない日常、ところどころ違和感があり、だんだんその違和感の意味が理解されていきます。

観終わって感じたことは、人が人を分けるときは、その人自身がどんな人かは関係ない時があるんだな、というやり切れなさです。

その架空の世界では、彼らは管理されていて、その中で生きることしかできないようになっているのでしょう。何も変わりがないいのちの営みが生活の中で感じられるのに、彼らの元には確実に「知らせ」が届くのです。

彼らは彼らでしかなく、その仕組みを考えた人たちの元、一方の側に立ち続けなければならない、そのことを忘れてしまうほどに、互いにいのちであり、いきている毎日がある、それがとても愛おしく、悲しい映画でした。

自分の幸せは、人の犠牲のもとでは成り立たない

最近感じたこの言葉が繰り返し聞こえてくるようでした。

ドラマは見ないでおこうと思っていますが、本は読んでみようと思います。

2019年1月8日火曜日

年があけて みた映画


ぼくと魔法の言葉たち

自閉症と診断された主人公と家族のドキュメンタリー映画。
家族で向き合うという姿に、ああ、こういう風に誠実にすればいいんだ、と教えてもらったように思います。
「コミュニケーションが取れなくなった息子(弟)を取り戻す」
この考え方は素敵だと思いました。
人が他者の世界に焦点を合わせて、その人の世界を理解しようとするということは、その人のことを大事に思うからできることなんだなあと改めて思いました。
アマゾンプライムで偶然探した映画だったけれど、また最初から見たい気持ちです。
ご両親もお兄さんも、暖かい人たちと印象でした。息子の行動や思いにいつも真剣に答えようとするなんて、家族として真剣だし、本人も自立について真摯だと感じました。。

わが母の記
樹木希林が母役で好演する映画。井上靖の原作のものです。
一度見たように思うのですが、その時はきちんと見ていなかったようで、初めて見るように展開が新鮮でした。
印象に残ったのは、認知症になったお母さんと、憤りや戸惑いを感じながら家族として暮らしながら、それぞれが心の幅を広げていく感触を感じられたことでした。
樹木希林さん、よかったです。


こんな夜中にバナナかよ
同名のノンフィクションが原作のもの。大泉洋主演。
本はまだ読んでいないので、映画のみの感想です。
大泉洋、笑ってしまうぐらい「ワガママ」さを好演していました。
高畑さんもよかったです。

印象としては、ああ、こんなに障害当事者と関わる側の気持ちはズレるんだなあ、というものがありました。私は自分の立場を重ねながら見てしまうので、介助をうけながせらの生活を外から冷静に見させててもらったような感じです。
ボランティアの方が書いた本が原作なので、ボランティアの目線から映画が作られているように感じました。だから自分と大泉洋さんの演じる主人公の気持ちを重ねられたように思います。

主人公の、親に対する思いなどは、共感したのか涙が出ました。ところどころなんだ泣けました。でも、いい意味で、介助に関わる方の気持ちや人生観を見せてもらったように感じています。



花冷えの日々

今年は桜が長い期間咲き、石神井川がとても綺麗な十日間あまりでした。 冬のような気温の毎日は、とてもこたえましたが。 少し気持ちがだれて、半月ほどどう考えながら暮らしていたのか、何も書き留めることもないまま過ごしてしまいました。 ソメイヨシノが満開のうちに友人が来てくれ...