2017年11月18日土曜日

生きる意味

10代の頃、生活していた肢体不自由児施設で、年上の友人から勧められて詩を書き始めました。

その時から詩を通して、生きるということを文字にあらわし始めました。

それはそれは拙くて、詩と言えるものでは世間的には言えない、未熟な作品しか今でも書けないけれど、
詩は自分をあらわしていく手段でもありました。

新聞など、投稿欄に出し続けた時期もありました。
背伸びをしたり、知ったかぶりをした作品は、必ず、作品としてはボツになりました。

生きるということを詩に求めないで歩き始めたのは、30歳を過ぎた頃です。
仕事を通して、自分の表現をする場所が増えて、伝えることで返ってくる責任も、少し感じるようになりました。

詩だけでなく、書くことが怖くなってきたのは、40代後半になってから。
自分はものを知らないということに、うっすらと気づき始めました。

詩の中ではなんでも書けたけれど、果たして自分はどれほどの経験をしたのだろうか、
そもそも私にできる経験とはなんなのだろうか、

最近、そんなそこはかとない悩みに一つの答えが見つかりました。

私の生きる意味とは、
自分の弱さや、物わかりの悪さ、ともすると暗く考えがちな癖を自覚して、
視野を自分以外の世界に広げて考えようと努力するところにあるのではないかということ。
それが自分に対する、自分が与えられるギフトではないかということです。

誰かに認められたいとか、何かができる自分でいたいとか、いい人間に見られたいとか、
そう言った思いを先に持ってしまう人間であることを自覚して、
何も身についていない現実を受け入れて、
少しでもいい思考のできる人になろうとすることです。

人一倍努力をしても、理解力が本当に遅いことも、私の特徴なのだと。そこをバネにして少しずつでも成長しようと諦めないことが、一番大事なこと。

たどり着いた私の生きる意味。
大切にして生きていきたいと思います。
いつか、大好きな人たちの、力になれる人間になれるように。



2017年11月8日水曜日

興味を持つということ

たとえば、車椅子ユーザーの中にもビラ配りが上手い人もおられるでしょうし、、声が大きくて場を盛り上げられる人もいらっしゃるでしょう。
私はそういうものを何一つ備えていないようです。

今日はあるところでのボランティア活動で、数人でちょっとしたものを配布する時間を過ごしました。

最近は、チラシやテッシュなどを配っている人に出会っても、私自身も目を合わせないようにして素通りすることが多いです。
持ち物を増やしたくないし、チラシなどは後で処分することになるので、頂かないのです。
よほど興味があれば別ですが。


なので、配る側に立った時は、受け取らない人の気持ちもわかったりします。

障害者運動や介助者募集の活動をして来たので、ビラ配りは経験して来たと思っていたのですが、
異なる場だと押しの弱い自分がいます。
声もうまく出ないし、車椅子は電動だから動き回っても良いと思うのに、周りの様子を伺ってしまうのです。

何故なんだろ。
この場所で、私は、どんなふうに過ごせば良いんだろう、なんて、考えているのです。
配布物を配りに来ただけなのに。


周りを見渡せば、私はなんとなく気を使われているような気もしてしまいます。
外から見れば、私が持つ配布物はなかなか人に受け取ってもらえないというのはあると思います。(自分では見た目などは割り切っていたとしても、実際は見たままなので)

それはそうなのですが、自分からぱっと動けるようにもならないし、スマートに行かないのも事実。
場を読むって難しいなあと思います。

ぱっと体が動くって、すごいことだと素朴に思います。
なんでもその場ですぐ体験できることって、すごいことだなあと。

あなたもできる、とか、私もできる、とか、そういう話をしたいのではなくて、
準備から片付けまで、動く体を提供できるって、すごいことだなあと、素朴に思いました。
本当に素朴に。

私は今日何を体験したかというと、

一緒に活動する方達との距離感とか、雰囲気を感じたり、活動中の人の流れや表情、そそれぞれの動きを見て、表情を知り、そしてどうひっくり返すこともできない私の立ち位置を受け入れたこと、かなあ。

私のできることは、よく聞いていること、よく見ていること、そして、いつも気持ちが大丈夫であること。

いろんなことは綺麗事では済まないし、私はその一つ一つを知っていくことが必要なんだよね。

居心地を求めるのではなく、ひとつひとつに興味を持つということ、
これは少しカッコつけたかな。
今日は少し抽象的で、分かりにくい文になってしまい申し訳ないです。


しかしひとつぐらい、私も役に立てる才能とかがあればよかった(汗)





2017年11月5日日曜日

君たちはどう生きるかーー吉野源三郎の世界ーー

多分、まだ実家で暮らしていた20代の頃、ラジオの「本の朗読」で、この本をところどころ聞いていたように思います。

吉野源三郎氏の「君たちはどう生きるか」。児童文学ですが、今この本を漫画化したものがよく売れているそうです。
「世界一受けたい授業」というテレビ番組の受け売りですが。

図書館で借りて、今日は少し時間があったので、半分まで読んでみました。
ラジオで聞いていた時は、聞かなかった部分もあったように思ったのです。
積極的に読もうともしなかったように思います。

この人を、私が目指す人生の見本の一人にしたいなあと、今は思います。
編集者であり、言論の不自由な時代に、自分も逮捕されながらも、児童文学にその表現方法を変えて書物を残した人です。

心に残る言葉や考え方がたくさんありました。

例えば、

「もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれがりっぱなこととして通っているからといって、ただそれだけで、言われた通りに行動し、教えられた通りに生きていこうとするならば、ーーコペルくん、いいか、それじゃあ、君はいつまでたっても、一人前の人間にはなれないんだ。子どものうちはそれでいい。しかし、もう君の年になると、それだけじゃあだめなんだ。肝心なことは、世間の目よりもなによりも、君自身がまず、人間の立派さがどこらにあるか、それを本当に君のたましいで知ることだ。そうして、心の底から、りっぱな人間になりたいという気持ちを起こすことだ。いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしていくときにも、また、君がいいと判断したことをやってくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくる、いきいきとした感情につらぬかれていなくてはいけない。北見君の口ぐせじゃあないが、だれがなんていったってーーというくらいな、心の張りがなければならないんだ」
                【吉野源三郎 君たちはどう生きるか ポプラ社】

すごくわかりやすい表現で書いてありますが、このことを私がようやく分かって言ったのはつい最近のことで、このような意味のものは、今学んでいる「霊的真理」の習い始めの時に、師から念入りに言われたことと共通することでした。

ものの心理というものは、表現や切り込み方の違いあっても、ねっこは同じなのだと、そのことも感じています。

物事を心で理解するということは本当に私にとって難しく、とても時間のかかることです。
自分の意思を持って生きていくというのは、知識を得て物知りになるのではなく、正しいか間違っているかという物差しを探すことでもなく、自分の中に生きていく価値を見出すことなんだと思います。そして自分で、生きる目的にたどり着くことなのではないかと思います。
それを少し理解できるようになったのが、本当にここ最近のことでした。

この本は、もうとっくに子どもの年ではなくなった私にとって、今だから理解できる本なのかも知れません。多分もっと早い時期に読んでいても、「そうだそうだ、わたしはわかっている、こんなことわかっている」と思い、深く考えることもなくスルーしていたかも知れません。
そして、子どもの本だからと、分かった気になっていたかも知れないのです。

それから、今読んで思ったことは、主人公の気持ちで読むのではなく、おじさんの側に立って読んでいたということでした。
もし、私だったら、若い人たちからコペル君のような疑問を投げかけられた時、どう答えるのか、私は今どのような大人なのか、そんなことで頭の片方をいっぱいにしながら、読み進んでいる自分がいます。

この本の一つ一つの言葉が身にしみるので、古本を探して手元に置こうと思っています。

2017年11月4日土曜日

井戸の中から

どうも私は、自分の中に想像しなかったことを、何の脈絡もなく聞かれると、気持ちが揺らぎます。

何故なんだろう、と、少し考えてみました。

心の揺らぎというのは、心地悪さということ。

例えば、
「○○のイベントは行くんですか?」
「インフルエンザの予防接種は打ったんですか?」

このような何気ない会話に、心が過剰に反応する時があるのです。

相手の方は、何気なく聞いていたりするのに、

「いかないことを責められている」
「まだ打っていないことを責められている」

と感じてしまう自分が、確実にいます。

なぜなのでしょう。

もしかしたら、イベントに行かないと決めている自分自身を、心の中で責めているのかもしれません。
予防接種にまだ行こうとしない自分を、怠けてると思っている心が隠れているのかもしれません。

その部分が過剰に反応してしまって、ものすごい勢いで言い訳を始めたり、責められた気分になって嫌な気分になってしまったり。

そんなような話題をふってくれた相手の方に、何故突然その話題なのでしょう、と、ある日伺ってみました。
そんなこと、あまり聞かないのでしょうが、私はあまり空気が読めていないので(汗)

そうしたら、その方もとても気にしていたことなのですって。

ああ、そうですね。私も、気になったことは、すぐ口に出ます。
私もこうやって、目の前の人と、話をしていたように思います。

突然、何の脈絡もなく、私の場合はきっと、独り言のように、しゃべっていたかも知れません。そういう時って、話しかけられた人は、戸惑ったでしょうね。

今、私が時々戸惑うようなことを、私も人に対して、知らず知らずにやってきたんだなと思いました。

そして、その時々で、私に話しかけられたみなさんは、根気よく話を合わせてくれたり、話を興味深く聞いてくれたり、そこから話題を広げてくれたりしました。

私も自分の悪い癖を心で発動することをやめて、聞く耳を持つことが必要ですね。

責められた気になってしまうのは、自分の心の反応に気持ちがいってしまうということなのかも知れません。

自分の思惑通りのこともあるかも知れないけれど、だからどうだというのでしょう。
何でもないことです。
人にどう思われても、いいんです。行動していないことを仮に責められたとしても。
それに対して、私が過度にネガティブになる必要はありません。

それよりも、私がやらなければいけないことは、聞く耳をもち、会話を楽しみ、そこから世界を過去し広げて考えること。そこなんだと思います。

毎日少しずつ、井の中から出る努力をするということですね、きっと。

2017年11月3日金曜日

オイルトラップ

今日、ある方とオイルトラップの話になり、いろいろ教えてもらいました。
飲食店などで設置義務となっているオイルトラップ。私は今日までこの言葉さえ知りませんでした。
オイルトラップとは、下水道に油等が流れていかないために作られた設備。
家庭では、そんなに油を流すことはないだろうという前提で、設備をする義務はありません。

でもできれば極力流さないほうがいいのは確かなことで。
つい、自分から、「油を拭き取ってください」と言わないままに、洗い物をお任せしてしまっていました。反省。

水といえば、ちょうど下水の話で盛り上がっていた時間に、ニュースで、多摩川の水温が数度上がっているということが報道されていました。
原因は、家庭等で使われている温水や、お風呂の水。そうした生活用水を処理して川に戻す時、どうしても水温が上がったまま戻すことになってしまうんだということでした。
水温が上がることで、川にすむ生物にも影響が出ているとのこと。

教えてくれた人も、働くまでは知らないことだったけれど、本当に水温高いんだと実感したそうです。

みんなで生活しているって、いろんなところに本当に影響を残しながら成り立っていることなんですね。例えば年末は大掃除する家庭が多くなりますが、塩素系の洗剤を流す率も増えてしまって、やはりそれも影響が出るそうです。

うーん、そうか…。

家庭用のオイルトラップ、どこかにあるのでしょうか。

とりあえずできることを(汗)。

2017年10月27日金曜日

「父と暮らせば」ニューヨーク公演実現に向かって

以前、このブログでも紹介した、舞台「父と暮らせば」。
井上ひさし原作の、広島のお話です。

以前の記事は
https://miwa-littleelephant.blogspot.jp/search?q=父と暮らせば


この舞台を、ニューヨークで公演しよう、という夢に邁進している方がいます。
ヒロインみつえ役を演じる、平野綾子さんです。

この舞台は、原子爆弾が落ちた後の広島で、心に深くきずを残しながら、父との交流の中で強く生きようとする、ある女性の物語です。
この舞台が、アメリカの地で開催されることは、より多くの人の心に残ることになると思います。そして、平和は一人一人が作らなければならないという気持ちが、深く伝わっていくことになる思うのです。。

平野さんの夢を、私も心から応援しています。
まずはその一歩を踏み出します。
ぜひ応援してくださったら、嬉しいです!!。
「父と暮せば」NY公演第一歩!プロモーション動画を作成したい!

2017年10月11日水曜日

全は一、一は全

先日、知人に尋ねられて、そういうこともあったかなあということがありました。
銀座の歩行者天国のおはなしです。
数年前、ストリートパフォーマンスをそこでみたという話を、知人に私はしたらしく。
覚えていないのです、悲しいことに。

書きたいことは、忘れっぽくなったということではなくて、
歩行者天国が一時期、なくなったということです。

原因は、マナーの問題とか、
その時期に起こった事件もありました。

誰かの行い一つで、物事が行われなくなることを、知人はとても残念がっていました。
ストリートパフォーマンスを、みたかったようでした。
今は、どうなんでしょうか、歩行者天国は、確か復活しているように思いましたが。

一人の人の行いで、社会のあり方や認識が変わってしまうということは、とても身近なことでした。

私は電動車いすユーザーになってもう30年以上になりますが、
すごく運転について、気を配ってきたと、自分では思っています。
誰かに当たらないように、お店で商品を傷つけないように、
それでも何か起こしてしまった時のために、保険など準備してきました。

だから、事故やトラブルなどのことがニュースにあがると、なんとも言えない気持ちになったものです。
ひとりの人の行動が、社会の認識を変えてしまうのに、と。

ここまで、そうか、と思ったことがあります。
障害も何も、関係なく、
世の中は一人一人が確実に関わって作られていて、
一人の人の影響力が、時に大きく社会に影響するのだと。

良いことも、悪いことも、
小さなたわいないことと思われるものであっても、

確実に社会に影響するし、自分にはそのぶんの責任があるのだと。

だから、自分をより深く理解し、今の自分が社会に表せるもののことや、
それが長い目で見て、本当に自分の望むものなのかを知っておいた方がいい、
そういうことなんだなと、思いました。

一人が世界に関わる、世界は一人一人が作っている、
自分は今、ここに何が残せるのか、何を表しておきたいのか。
自分ののこしたものが社会に影響を与えるということを気づいた時、
一人の人間の責任の重さを感じたのです。

全ての出来事は人ごとではなく、自分の世界の中に引き入れて考えていくということ。
ものごとを繋げて考えていくために、私はもっと学ばなくてはダメですね、

2017年9月27日水曜日

ナミヤ雑貨店の奇蹟

どうしても観たくて、行ってきました。少し遊び過ぎ(^o^)
東野圭吾さん原作の映画。

やっぱり、こういう映画は大好き。泣けました。
人が人のことを思って行動する姿って、なんて哀しくて美しくて、心に残るんだろう。
誰かを胸に思いながら強く生きるって、なんて素敵なんだろう、そう思います。

この映画を観終わった後、ふと、自分は何者になりたかったのかなあと、考えました。
少し前までは、人並みに生きたくて、それを誰かに認めてもらいたくて、追い求めていたけれども、
その夢から覚めて、何も身につけてこなかった自分を思うと、
ああ、何者になりたかったのかなあって、考えました。

人の悲しみを、少しは察せられるようになったか。
人に痛みを与えてしまう側から、卒業できているか。
少しは物事を理解できるようになったのか。
何も知らなかったということを受け入れることはできたのか。

山下達郎さんのエンデングの歌を聴きながら、そんな思いにかられました。

私の50年は、なんだったんだろう。何者かになるために生きてきたのだろうか。
いいえ、自分の心に精一杯で、まだ何者にもなれてない自分を見つけてしまった気分なのだと思います。

それでも、まだ人生は続くのだから、諦めてはいけないね。
何者かになるために、死ぬまで諦めないで行こう。

「ヤコブへの手紙」という映画をふと思い出しました。


2017年9月21日木曜日

三度目の殺人

是枝監督作品の最新作。福山雅治と広瀬すず、役所広司出演の映画です。

私の理解力では追いつかなくて、見終わった後に混乱を残しました。
でも、何があっていて間違っているか、誰が犯人かとかそういうことではなくて、人は何を見て真実を生きるのか、見るということはどういうことなのか、本当のことはどこにあるのか、それを問う映画でした。

いつも答えを求めてしまう私には、疲れたけれど深く印象に残りました。

人が人を無視しないで、真実に生きるとは、規範やセオリーではなくて、心をどこに向けて生きるのかということを考えました。

役所広司さん、すごかった、もう一度見たら、混乱が治るかしら。
でもネット検索して、混乱していた頭の中を解説で整理してしまったので、自分でたどり着けばよかったかなあと少し思っています。

謎はまだ残っていますが。それはゆっくり考えます、

見終わった後、昔の映画、グリーンマイルが頭をよぎりました。


2017年9月18日月曜日

世界を広げる

幾山河という本の感想を前回書きましたが、この本を読み終わったあと、チャクラヒーリングを受けてきました。
毎回お世話になっているのは、Medicine Whell です。

チャクラヒーリングは今回で数回目。上記のサロンが主催しているスクールの中でも教えていただいたので、4回目ぐらいになるでしょうか。

1回目と二回目は、自分が過去生で残してしまった出来事を見るだけで精一杯で、どう受け入れていいかわからず、混迷しました。

3回目は、ようやく積極的に過去のことを掘り出したように思いました。そしてそこに学びがあることを実感しました。

今回は少し違います。相変わらず受け入れがたい事実ばかりですが、本当は周りの環境は学べるものが整っていた、とか、
自分がその人生の時に謙虚に現実を受け入れていれば、修正するチャンスがあったとか、
少し冷静に物事を感じているように思います。

今回は今回で、自分の課題はあり、本当に自分には人を愛することができなかったなあと、心が痛く、向き合うのは難しいです。一人では本当にできないことだと、恩師には本当に感謝です。

学べる場があることに、教えてくれる方に感謝の気持ちを忘れずに、今回も向き合っていきたいと思っています。

幾山河

瀬島隆三氏の回想録、「幾山河」を読んで、
第二次対戦前の日本は、世界から孤立していたんだなあと、改めて思いました。
どうにもできない身に迫る思いを感じて、なんとも言えない気持ちになりました。

孤立するって、怖いなあと。
どうにもできないって、追い詰められるなあと。

周りがきちんと見えなくなっていることを、振り返って、こうして記録に残す精神は、心に残りました。
冷静に全体を捉えることは、大切なことだと思いました。

ただ、この時代の日本は、どこかの国に似ているところがあるようにも思いました。
やはり、今世界で起こっていることは、ひとつも人ごとではないのだと思いました。

自分のそばに引き寄せて、自分の世界感で物事を見えるようにならないと、今生きている社会の中で、一人テレビ画面を見ているような感覚に陥ってしまいそう。

それはあまりにも悲しいから、自分の世界観を改めてみようと思いました。

戦争も、テロも、災害も、どこかで起こっていることではなくて、私が住んでいる世界で起こっていること。

私がそこにいたら、どうするのだろう。どうすればいいのだろう。
そこから考えていこうと、改めて。

生きる意味

10代の頃、生活していた肢体不自由児施設で、年上の友人から勧められて詩を書き始めました。 その時から詩を通して、生きるということを文字にあらわし始めました。 それはそれは拙くて、詩と言えるものでは世間的には言えない、未熟な作品しか今でも書けないけれど、 詩は自分をあらわ...