2019年2月27日水曜日

道草

映画「道草」を、新宿のK`sシネマで観てきました。


知的障害と自閉症を持つ人の自立生活。その人自身の日常の様子や、介助で関わる人たちとの関係性が、自然にえがかれていました。
登場する人たちの人となりがすっと入ってくるような映画で、いい映画だったなあと思いました。

固定観念のようなものがないというか、信頼関係を感じるというか、映像にするときに一人一人の個人を自然に残せるのは、映す側の視野の広さなのかも知れません。

伝えにくいことも映像にこめ、ありのままに生きていくということを問いかけてくる感覚を覚えました。

季節の鳥や木々や花の様子もうつくしく、映画の登場人物と一緒に大きな夕日を眺めたりしている気分になりました。

私も昔自立生活センターの職員として働いていた頃がありましたが、私自身はとても視野が狭かったなあと改めて感じました。あの頃は自分にビジョンがないことに悩みながら活動していたけれど、そしてうまいようにできないことにいろんな感情を味わっていたけれど、それはきっと自分自身のことで精一杯な部分が多かったんだろうなって。。

立場が違うそれぞれの人が意見を交わしながらの年月を積み重ねて、今の道があるんだと、自戒を持ってかんじました。

私は私のやりたいことしかできないのだなあと、思いました。


K'sシネマでは3月8日まで。10時20分の上映です。
平日に行ってきましたが、かなり混んでいました。車いす席は2つで、事前に連絡すれば座席を外しておいて下さいます。

2019年2月26日火曜日

東京都美術館の特別鑑賞会

東京都美術館では、企画展の各機関のうち一日だけ、障害のある人のための特別鑑賞会を催しています。
東京藝術大学とコラボした、とびらプロジェクトの活動なのだそうです。

数年前から友人に誘われて、毎回応募し、抽選に当たると出かけています。

開催されるのは期間中のある月曜日。友人は、くじ運が強いらしく毎回当選しますが、私は2回ほど外しています。

今回は江戸絵画。色使いも面白く、大胆な作品もあり、すっかり楽しみました。

毎回、タブレットを持っている方々が要所要所にいらっしゃって、お願いするとタブレットの中の絵画を大きくして見せてくださいます。


数回行われる10分ほどの企画展示に関するトークも、わかりやすくていいなあと思っています。

今回は友人とは時間帯が合わず、会えませんでしたが、江戸絵画を満喫して、いつものように楽しむことができました。

2019年2月11日月曜日

会話のしかた

私はいつも日常の中で失敗することが多いです。
あまり調子よくない時は特に、気づかないというか、思いが及ばないというか。

最近も、思わぬところで気がつかず、相手の方と気まずくなりました。


そのときに、気がついたことがありました。

私は普段、無意識に会話をしていることが多かった、ということ。
相手の方の言葉に反応したまま、反射のように答えていたみたいです。

なぜそれではいけないのかというと、自分で感じたり考えたりする時間を取っていないのがまずいのです。
もっというと、意識を持って感じたり考えたりする時間のことです。

相手から投げかけられた言葉に、反応したまま何も感じずに、反射的に返してしまう言葉は、私の心が入らないものになってしまうのだなあと。

なにも感じずに、という言い方には語弊がありました。
感じていることを意識しないまま、という言い方が正しいでしょうか。

言葉のやり取りはとても難しいことですが(そして語彙の少ない私はここでどう書いていいかわからなくて今回は意味不明の文章です。すみません)、たとえどんなふうに話しかけられても、気持ちの反応で言葉を返すのではなく、なにを感じたのがをせめてわかった上で、話せるようにならないとなあと思ったのです。

そうしないと、思わぬところですれ違います。これは実感しました。

言葉は、相手を理解するために使い、自分の愛情を表現するために使うのですね。
言葉を伝えるって、本当に難しいです。



2019年2月5日火曜日

私を離さないで 原作を読んで

図書館に予約した本がすぐに来たので、読んでみました。

思っていたよりも優しい語り口で、これは翻訳者の方が良かったのかな、と思いながら読み始めたのですが、静かになぞを解くようにあっという間に読み終わりました。

なぜこんなに読みやすかったのだろうと、今考えています。
施設とか、隔離された世界の生活というのは、ある程度私には理解できる世界観だったのかもしれません。もちろん置かれた環境はまるっきり違うのだけれども。主人公たちの生活感が溢れていて、細やかで入り込みやすい世界でした。

他人の世界観に立つということは本当に難しいことなのですね。確かにそこにある命を、一方の側からは違うものにしか見えないということと、本人たちの生という当たり前の営みが大きくずれている事実が、とても悲しい作品でした。

丁寧に丁寧に描かれたその世界は、どんな環境下でも、どんな目論見があるところでも、生を受けたものは生きようとし、命は輝くということ。人がどんなふうに思おうと、たとえ医学や科学の発達でできていく命であっても、なんら変わりはなく私たちは一緒の世界を生きている同じ重さの命であるということを、言いたかったのかな、と感じました。

片方しか見ようとしなければ物事はその方向でしか見えず、この小説に出てきた主人公たちは残酷な道を行かなくてはいけないばかりなのだけれど、できれば多くの人に、この架空の世界は環境を変えて隣で起こっているかもしれないということ気づいて欲しいと言われているような気がしました。
架空だからこそ非現実な世界として最後まで読めるけれども、人は見知らぬ他人の命よりも見知った人の命を優先し、見知らぬ相手にも自分と同じ感情や思いがあるということを忘れてしまう中に生きているということを、そうやって世界が動いている事実を知らなくてはいけないのだと感じました。
自分の命も他者の命も大切にできる世界を作るために、小さな私の世界をどう生きたらいいのか、今私はすごく気になっています。

物語の終盤に出てくるセリフ、
「あなたたちがいつも怖かった」
エミリ先生の中にあった恐怖ってなんなのだろうと、今考えています。
本来持たないだろうと思われている人たちに心があると分かったとき、人が感じる恐怖なのでしょうか。それとも、物語に流れる架空の設定の中で、自分たちがその子供達を教育することで何が起こるのかという先行きの見えなかったものに対する恐怖なのでしょうか。

命を区別する側は、区別の理由を持っています。エミリ先生の感じた恐怖は、その理由が成り立たないという事実を本当は知っていて、その事実を大事に生きることを選んでいない自分が見透かされているかも知れないという恐怖でしょうか。本当に真の人間らしい愛を持った人間になれないのは、目の前の特別な子供達ではなく自分たちの側なのだということを、誰かに見透かされてしまわないかという恐怖なのでしょうか。

優しい文体でこの世界を表すなんて、本当にすごいことだと感じました。


受け身の生き方をやめるということ

私は、どういうわけか無意識に気を使ってしまう人に時々出会います。
関係性が悪いわけではないのに、その方と会うときは少し気持ちが張って、今日はどんな様子なのか妙に気になってしまうのです。

昔から、同じような雰囲気のする方との関係性は、緊張します。

その方は、私の持ってないものを持っているように見えます。
すごく人生を楽しんでいるように見えます。

それなのに、なんだかいつもお疲れのような、そんな雰囲気を感じてしまうと、今日は機嫌がいいのかどうか、気になってしまうのです。気遣う方向が外れちゃうといけないことをしたような、罪悪感が回ります。

最近、知人と話していて、そういう自分に気がつきました。会話に出るまで、意識なく、ただ私が察しが悪く、何か気がつかないことが重なっているから落ち着かないのだろうと思っていました。その日によって気分や体調が違うことは当たり前のことだし、それを毎回受け入れられない私の心が未熟なせいで気になるのだと思っていました。なので、変に気を使う自分を自覚できたとき、ハッとしました。

なぜ気になってしまうのか、なぜ相手の方の機嫌をとりたくなるような衝動を感じてしまうのか、少し考えてみました。

すると、自分の、人に対しての関係作りの課題がみえてきました。

数年前まで、私は精神的に本当に子供で、自分よりも精神的に大人の人としかうまく関係性がつくれませんでした。つまり、相手の方が理解してくれなければ、私からは相手の方を理解しようとすることができなかったのです。

最近は、自分ももし子供を産んでいたのなら成人するぐらいの子供がいるような年齢となり、年齢差を感じる方々と出会うと、まず話を聞いてみたいという気持ちが生まれるようになりました。これはふしぎな心の変化でした。

出産もしてなく、結婚もしなかったし、若い人と多く接する仕事の縁もなかった人生でしたが、少し目線を変えることができたのは、ヒーリングサロンでいただいた一つのアドバイスも原因の一つだったと思います。
「あなたが親の目線を持てば、世界中の人があなたの子供になる」
この言葉は今も心の中に生きていて、ことあるごとにはっきりと聞こえてきます。

あまり経験のないのは、子供の部分を持つ大人の方とのおつきあいです。
つまり、私の持っている部分と同じようなものをもつ方々と関係を深めることが難しいのです。

そう、書いてみて気がついたけれど、子供大人だったのは私自身でした。分別ある能力を持った大人と認めて欲しくて、できることをアピールしてみたり、知識をさらけ出したりしますが、自分の感情をコントロールすることもできないで、周りの人々に気を使わせてしまう、自分はうまくできていると思っているので、不合理なことに出会った時に相手がどうすれば自身が犯したミスに気がついてくれるのかと、そのことばかり考えてしまう、この考えのあり方はまさしく私自身のことでした。

そうすると、そういう私のことを周りの方は理解しようと思いやってくれて、付き合ってくれたということになります。私に合わせてくれたということです。

今私が悩んでいる人間関係は、私が多くの方からいただいていたものを恩返ししていけばいいということなのかもしれません。
それが私の、人を思う経験の一つになるのかもしれません。

今から思うと、その頃の私は、実は人生を自分の意思で生きていませんでした。
このブログに何度も書きますが、人並みに扱われる人生を望んでいただけで、人並みに考えられるように努力して生きることに欠けていました。

これは今だからわかることです。その頃の私は、人生を積極的に生きていると思っていたし、思ったように生きられる自分に満足していました。無意識の怒りは社会に向けられていました。

子供大人、つまり、まだ自分を見出せてない頃は、無意識に自分をアピールしたり、周りを責めて自分の正当性を確かめたくなるものです。自分を気遣ってくれない世間はなんと心が狭いのだろう、未熟なのだろう、私の言葉がなぜ理解できないのだろうと思ってしまいます。
私もまだその部分を捨てきれていないようです。だから冷静にことが見られないのかもしれません。

受け身の人生をやめるということは、自分の生き方を見直す力を養うということなのかもしれません。改善点は自分にあり、世間にはアイデアを提供したりリクエストすることしかできないのかも知れません。自分の心を改善していこうとする意思は、生きる目的を見つけていなければ難しいことかも知れません。

その時の会話で忘れられない言葉があります。
「経験だけでも意味がない」
「でも、多くを経験しないと、自分を振り返る力がつかない」

そうですね、今私が「自分がいたらない」の自覚できているのは、多くの経験の中で「失敗」を感じ、「恥」を感じ、自分ができていないということを、ある日、理解できてからだと思います。その友人もそう、だからこの話ができたし、そこに信頼を持っています。

そう思うと今の私の生活は、私が学ぶ必要があることが、形を変えて随時起こっているということになります。
そして、そのことを会話で確認できる友人に出会えているということも、私が感謝していきたい事実の一つなのだと感じています。


2019年2月2日土曜日

私を離さないで

カズオ・イシグロ氏の原作「私を離さないで」。映画版を観ました。

1967年の架空の世界設定の解説から始まるこの物語、たんたんとすすむ話の中で、やりきれない思いが心の中に広がりました。
隔たりがあるけれど、変わらない日常、ところどころ違和感があり、だんだんその違和感の意味が理解されていきます。

観終わって感じたことは、人が人を分けるときは、その人自身がどんな人かは関係ない時があるんだな、というやり切れなさです。

その架空の世界では、彼らは管理されていて、その中で生きることしかできないようになっているのでしょう。何も変わりがないいのちの営みが生活の中で感じられるのに、彼らの元には確実に「知らせ」が届くのです。

彼らは彼らでしかなく、その仕組みを考えた人たちの元、一方の側に立ち続けなければならない、そのことを忘れてしまうほどに、互いにいのちであり、いきている毎日がある、それがとても愛おしく、悲しい映画でした。

自分の幸せは、人の犠牲のもとでは成り立たない

最近感じたこの言葉が繰り返し聞こえてくるようでした。

ドラマは見ないでおこうと思っていますが、本は読んでみようと思います。

新しい家での暮らし

 しばらくぶりの更新です。 9年間住ませていただいた古い家と別れて、春から新しい家での生活が始まりました。 小さな一軒家。築50数年だそうですが、全リフォームしてある家です。 南側には大きなひさしがあり、玄関からは出入りできませんが、キッチン側の大きな窓が地面から低い位置にたまた...