2017年11月22日水曜日

10年目のスタートライン

普段自分でも忘れていますが、このブログは遠隔ヒーリングのサロンのブログを兼ねています。
書くことのほとんどは私的な出来事が多く、お仕事用の文章はあまりかけていないのが現実ではあります。

遠隔ヒーリングのサロンをホームページ上で始めた理由は、レイキヒーリング等ヒーリングエネルギーを扱えるようになったときに、アチューメント(エネルギーを扱えるようにしてもらうこと)をしてくれた師に勧められたことがきっかけです。

師と書かせてもらう理由は、師の主催する学校の生徒だからです。私塾のようなもので、約10年お世話になっています。

そのスクールは、人間として日々生きて行くための力を育てて行く視点が大きいところで、自分の弱い部分、苦手なところ、向き合いたくないところをみて行く場所でした。
自分だけでなく、生徒同士もその視点で支え合うことを学びます。


利己的な私はほんとうに、いい生徒ではなく、失敗ばかりの十年間でした。

10年目に、ようやく気付いたこと、それは、成長、という意味です。

私にとって成長とは、受け取った情報を自分の言葉に置き換えて表現し、自分の中に消化する繰り返しの中で得ていけるもののようです。
私はまだ、見たもの聞いたものをその場で自分の中に落とし込めるほどの力量が育っていないみたいです。
だから書くことが必要で、書かなくてはわからないということです。

私はいつも、書くということを自分の気持ちを人にわかってもらうことにばかり使って生きてきました。そして、情報や価値観を外にばかり求めてきました。

使い方が違ったのです。

いつも助言を受けていましたが、こんな風に自分で理解するまで10年かかってしまいました。
ようやく、まるで初心者のように、スタートラインに立てたのです。

むだな時間はもう少しもありません。物事を理解したら、進むしかないのです。

支えてくださった師に、スクールに、生活に関わってくださっている多くの皆様に感謝しています。


2017年11月18日土曜日

生きる意味

10代の頃、生活していた肢体不自由児施設で、年上の友人から勧められて詩を書き始めました。

その時から詩を通して、生きるということを文字にあらわし始めました。

それはそれは拙くて、詩と言えるものでは世間的には言えない、未熟な作品しか今でも書けないけれど、
詩は自分をあらわしていく手段でもありました。

新聞など、投稿欄に出し続けた時期もありました。
背伸びをしたり、知ったかぶりをした作品は、必ず、作品としてはボツになりました。

生きるということを詩に求めないで歩き始めたのは、30歳を過ぎた頃です。
仕事を通して、自分の表現をする場所が増えて、伝えることで返ってくる責任も、少し感じるようになりました。

詩だけでなく、書くことが怖くなってきたのは、40代後半になってから。
自分はものを知らないということに、うっすらと気づき始めました。

詩の中ではなんでも書けたけれど、果たして自分はどれほどの経験をしたのだろうか、
そもそも私にできる経験とはなんなのだろうか、

最近、そんなそこはかとない悩みに一つの答えが見つかりました。

私の生きる意味とは、
自分の弱さや、物わかりの悪さ、ともすると暗く考えがちな癖を自覚して、
視野を自分以外の世界に広げて考えようと努力するところにあるのではないかということ。
それが自分に対する、自分が与えられるギフトではないかということです。

誰かに認められたいとか、何かができる自分でいたいとか、いい人間に見られたいとか、
そう言った思いを先に持ってしまう人間であることを自覚して、
何も身についていない現実を受け入れて、
少しでもいい思考のできる人になろうとすることです。

人一倍努力をしても、理解力が本当に遅いことも、私の特徴なのだと。そこをバネにして少しずつでも成長しようと諦めないことが、一番大事なこと。

たどり着いた私の生きる意味。
大切にして生きていきたいと思います。
いつか、大好きな人たちの、力になれる人間になれるように。



2017年11月5日日曜日

君たちはどう生きるかーー吉野源三郎の世界ーー

多分、まだ実家で暮らしていた20代の頃、ラジオの「本の朗読」で、この本をところどころ聞いていたように思います。

吉野源三郎氏の「君たちはどう生きるか」。児童文学ですが、今この本を漫画化したものがよく売れているそうです。
「世界一受けたい授業」というテレビ番組の受け売りですが。

図書館で借りて、今日は少し時間があったので、半分まで読んでみました。
ラジオで聞いていた時は、聞かなかった部分もあったように思ったのです。
積極的に読もうともしなかったように思います。

この人を、私が目指す人生の見本の一人にしたいなあと、今は思います。
編集者であり、言論の不自由な時代に、自分も逮捕されながらも、児童文学にその表現方法を変えて書物を残した人です。

心に残る言葉や考え方がたくさんありました。

例えば、

「もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれがりっぱなこととして通っているからといって、ただそれだけで、言われた通りに行動し、教えられた通りに生きていこうとするならば、ーーコペルくん、いいか、それじゃあ、君はいつまでたっても、一人前の人間にはなれないんだ。子どものうちはそれでいい。しかし、もう君の年になると、それだけじゃあだめなんだ。肝心なことは、世間の目よりもなによりも、君自身がまず、人間の立派さがどこらにあるか、それを本当に君のたましいで知ることだ。そうして、心の底から、りっぱな人間になりたいという気持ちを起こすことだ。いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしていくときにも、また、君がいいと判断したことをやってくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくる、いきいきとした感情につらぬかれていなくてはいけない。北見君の口ぐせじゃあないが、だれがなんていったってーーというくらいな、心の張りがなければならないんだ」
                【吉野源三郎 君たちはどう生きるか ポプラ社】

すごくわかりやすい表現で書いてありますが、このことを私がようやく分かって言ったのはつい最近のことで、このような意味のものは、今学んでいる「霊的真理」の習い始めの時に、師から念入りに言われたことと共通することでした。

ものの心理というものは、表現や切り込み方の違いあっても、ねっこは同じなのだと、そのことも感じています。

物事を心で理解するということは本当に私にとって難しく、とても時間のかかることです。
自分の意思を持って生きていくというのは、知識を得て物知りになるのではなく、正しいか間違っているかという物差しを探すことでもなく、自分の中に生きていく価値を見出すことなんだと思います。そして自分で、生きる目的にたどり着くことなのではないかと思います。
それを少し理解できるようになったのが、本当にここ最近のことでした。

この本は、もうとっくに子どもの年ではなくなった私にとって、今だから理解できる本なのかも知れません。多分もっと早い時期に読んでいても、「そうだそうだ、わたしはわかっている、こんなことわかっている」と思い、深く考えることもなくスルーしていたかも知れません。
そして、子どもの本だからと、分かった気になっていたかも知れないのです。

それから、今読んで思ったことは、主人公の気持ちで読むのではなく、おじさんの側に立って読んでいたということでした。
もし、私だったら、若い人たちからコペル君のような疑問を投げかけられた時、どう答えるのか、私は今どのような大人なのか、そんなことで頭の片方をいっぱいにしながら、読み進んでいる自分がいます。

この本の一つ一つの言葉が身にしみるので、古本を探して手元に置こうと思っています。

2017年11月4日土曜日

井戸の中から

どうも私は、自分の中に想像しなかったことを、何の脈絡もなく聞かれると、気持ちが揺らぎます。

何故なんだろう、と、少し考えてみました。

心の揺らぎというのは、心地悪さということ。

例えば、
「○○のイベントは行くんですか?」
「インフルエンザの予防接種は打ったんですか?」

このような何気ない会話に、心が過剰に反応する時があるのです。

相手の方は、何気なく聞いていたりするのに、

「いかないことを責められている」
「まだ打っていないことを責められている」

と感じてしまう自分が、確実にいます。

なぜなのでしょう。

もしかしたら、イベントに行かないと決めている自分自身を、心の中で責めているのかもしれません。
予防接種にまだ行こうとしない自分を、怠けてると思っている心が隠れているのかもしれません。

その部分が過剰に反応してしまって、ものすごい勢いで言い訳を始めたり、責められた気分になって嫌な気分になってしまったり。

そんなような話題をふってくれた相手の方に、何故突然その話題なのでしょう、と、ある日伺ってみました。
そんなこと、あまり聞かないのでしょうが、私はあまり空気が読めていないので(汗)

そうしたら、その方もとても気にしていたことなのですって。

ああ、そうですね。私も、気になったことは、すぐ口に出ます。
私もこうやって、目の前の人と、話をしていたように思います。

突然、何の脈絡もなく、私の場合はきっと、独り言のように、しゃべっていたかも知れません。そういう時って、話しかけられた人は、戸惑ったでしょうね。

今、私が時々戸惑うようなことを、私も人に対して、知らず知らずにやってきたんだなと思いました。

そして、その時々で、私に話しかけられたみなさんは、根気よく話を合わせてくれたり、話を興味深く聞いてくれたり、そこから話題を広げてくれたりしました。

私も自分の悪い癖を心で発動することをやめて、聞く耳を持つことが必要ですね。

責められた気になってしまうのは、自分の心の反応に気持ちがいってしまうということなのかも知れません。

自分の思惑通りのこともあるかも知れないけれど、だからどうだというのでしょう。
何でもないことです。
人にどう思われても、いいんです。行動していないことを仮に責められたとしても。
それに対して、私が過度にネガティブになる必要はありません。

それよりも、私がやらなければいけないことは、聞く耳をもち、会話を楽しみ、そこから世界を過去し広げて考えること。そこなんだと思います。

毎日少しずつ、井の中から出る努力をするということですね、きっと。

2017年11月3日金曜日

オイルトラップ

今日、ある方とオイルトラップの話になり、いろいろ教えてもらいました。
飲食店などで設置義務となっているオイルトラップ。私は今日までこの言葉さえ知りませんでした。
オイルトラップとは、下水道に油等が流れていかないために作られた設備。
家庭では、そんなに油を流すことはないだろうという前提で、設備をする義務はありません。

でもできれば極力流さないほうがいいのは確かなことで。
つい、自分から、「油を拭き取ってください」と言わないままに、洗い物をお任せしてしまっていました。反省。

水といえば、ちょうど下水の話で盛り上がっていた時間に、ニュースで、多摩川の水温が数度上がっているということが報道されていました。
原因は、家庭等で使われている温水や、お風呂の水。そうした生活用水を処理して川に戻す時、どうしても水温が上がったまま戻すことになってしまうんだということでした。
水温が上がることで、川にすむ生物にも影響が出ているとのこと。

教えてくれた人も、働くまでは知らないことだったけれど、本当に水温高いんだと実感したそうです。

みんなで生活しているって、いろんなところに本当に影響を残しながら成り立っていることなんですね。例えば年末は大掃除する家庭が多くなりますが、塩素系の洗剤を流す率も増えてしまって、やはりそれも影響が出るそうです。

うーん、そうか…。

家庭用のオイルトラップ、どこかにあるのでしょうか。

とりあえずできることを(汗)。

花田春兆ーーその人と企画展

花田春兆氏の企画展を教えてもらい、行ってきました。 花田春兆ーその人と企画展 場所は板橋の淑徳短期大学。今月17日から明日までの企画展です。 数作著書を読み、生前にはそのほかにも接点をいただいていた春兆先生。 今日は主催された方からお話を伺う時間をいただい...