2020年3月30日月曜日

志村けんさんの訃報

小さい頃、ドリフターズが好きでした。
「全員集合」は、小さい頃、施設生活をしている頃から見ていました。

「ドリフの大爆笑」も毎回観ていましたし、
「カトちゃんケンちゃん云々」も観ていたように思います。

バカ殿は苦手だったけれど、
「変なおじさん」は好きでした。

最近は志村動物園(テレビばっかりだ汗)を毎回観ていて、お笑いでない分野でまた癒されていたのを今日自覚しました。

ファミリーヒストリー(NHK)も、金スマの特集も観たし、
何気に本当に親しんでいたみたいです。

だから今、すごく悲しいです。
このような形で、姿が見られなくなることが。

考えてみたら、リアルにお会いしたことなど一度もないし、
知らない方なのですが。
人ごととは思えませんでした。
だから今は、追悼番組も見られない気分です。

小さい時からいい年頃になる今日までの時間、私の心に笑いとウィットをいただいて、本当にありがとうございました。

どうぞ安らかに。感謝を込めて。心からお悔やみ申し上げます。

2020年3月25日水曜日

2020年3月15日日曜日

いちばんになりたくない理由

心の整理をしたのにフアフアとまだ落ち着かない部分を感じて、何が原因なのか少し向き合ってみました。
前回、私は自分の中に「人にウィルスをうつしたくない」と言う気持ちを持っていると言うことを書きました。
それは、人に迷惑をかけたくないと言う気持ちでした。
私に今関わってくれる人はたくさんいて、その人たち全員に迷惑がかかることを、怖がっているのでした。
自分には生きる覚悟が足りなかったことはわかりましたが、覚悟が決まってもまだ心が治りません。
何があるのだろうともう少し考えてみました。

「人に迷惑をかけたくない」と言う気持ちは、発生源になりたくないと言う気持ちです。
そう言う気持ちの奥には、「悪者になりたくない」と言う気持ちがあったようです。
自分は悪者になりたくない、つまりは、いつも悪くない人でありたいだけ。
自分を守りたいだけなんだと言うことに気が付きました。

メディアはウィルスに感染してしまわれた人たちを、さも悪いように報じているように見えます。
そう感じてしまうのは私の心のあり方かも知れません。本当は被害に遭われていると言うことなのに、そうでないように受け取ってしまうのです。


そして自分の番が来ないことをのぞみ、願ってしまう、そこにいつも怖さが潜んでしまうのです。
悪者にはなりたくないけれど、それはみんな同じこと。
でもそうはいかないこともあると言うことを、理解しないといけないと感じました。
感染された方が悪いわけではない。今はみんな慎重に行動しているでしょうし、それでも不可抗力が起こるのです。

自分を守りたいだけの思いは流してしまおうと思いました。
誰が悪いわけではない、全員で今は乗り切ろうと努力することが大切な時なのかも知れません。
大切なのは、何かの時に自分の愛情を表現できるかどうか。その時に光の方を選ぶ心を持てることなのかなと思います。
そうありたいと思う今日この頃です。

こわさはひょんなところから生まれると、気がついた出来事でした。


2020年3月10日火曜日

私に足りなかったもの

コロナウィルスの問題が全国に広がる中、私は心に言い知れぬ不安を感じるようになりました。

言葉にするとそれは、

私がもし感染して、家に来てくださる多くの人にウィルスをうつしてしまったらどうしたらいいだろう

というものでした。

この心の火種は、日々流れるニュースの中で自分の外側の世界から同じような思いを引きつけてしまった気がします。
そして、個人的にいくつか予定していたことがなくなり、少なからずがっかりする自分の心が、落ち着かなくなっていったのです。

心が落ち着かない理由を、ずっと探っていました。

話は少し逸れて、少し暗い話になり読みにくくなってしまうかもしれませんが、私は昨年辺りからずっと「生きること」に執着を持たなくなりました。
積極的に生を終わらせたいということではありません。何がなんでも生きたいという、渇望が無くなったと言えばいいのでしょうか。
それまで、「自分が生き残るため」に何が必要なのかに焦点が当たり、そこから社会を見ていました。
なので、自分の身を脅かすような社会の流れがとても嫌いでした。
いつもその部分に恐怖を抱えていました。
自分が受けている福祉制度が安定して続くことばかり求めていました。
福祉制度が不安定になっていく要因に対して、いつも怒りを持ち、社会を斜にみて生きていました。

「生きること」に過度な執着を持たなくなった時、少し目線が変わって、今社会が抱えているさまざまな現状に、心が痛くなることが多くなりました。
目の前の人さえも助ける知恵がない愚かな自分に、無力さを感じました。

自分は何もできていないんだと、思いました。

それでも日々は過ぎていき、私の生活は日本の福祉制度の中で安定した時間を過ごすことができました。

そのなかで今回の問題が社会に起きました。

生きることに執着しなくなったはずなのに、生きていくこと自体がとても不安になっていく自分。社会の流れに冷静さを欠いていく自分。
何が足りなかったか、あるとき気がつきました。

私には、何があっても生きていく覚悟が、足りなかったのです。

私の体は、確かに誰かのサポートがなければ、日常生活がままならないという身体障がいがあります。なので、現実を踏まえて書くととても難しく感じてしまうのですが、

心のどこかで、頼るものを探し、そこに人生を委ねたいと思っていたのではないかと思ったのです。

生きることに執着することと、積極的に生きることは、全く別のことです。

私は生きることに執着することはやめました。何がなんでも自分を生かしたいという気持ちからは離れることができたのです。
それは、すべての命を自分と同等の命と認識することなのではないかと思います。
私と同じようにみんなも生きている、みんなと同じように私も生きている、という感覚です。
自分をむげに犠牲にはしないけれど、人を傷つけてまで生き延びようとは思わない、という感覚でしょうか。
人として当たり前だと思われるこの感覚が、私には少なかったようです。

この感覚は、私の中に生きることに関しての無力感のようなものを感じさせるようになりました。どのように、生きることを考えていったらいいのか、わからなくなったのです。

それでいて、価値観に合わないようなことが起こると、いつも戸惑い、暗にその出来事を拒絶する日々が続きました。

今回の社会の大きな出来事の中で、「積極的に生きようとすること」が私にはできていなかったのではないかと思いました。
「死ぬ気で生きる」ということです。
生きることに執着していないと言いながら、死ぬことは怖くないと言いながら、生きることにこんなに怯えるのはなぜだろうと考えて行った時、「死ぬ気で生きていない自分」に気が付いたのです。
がむしゃらに生きるとか、そういうことではなく、「今日死んでもいいと思ってベストを尽くす」という気持ちが薄かったのです。
つまり、今日を生きる覚悟が、足らなかったのです。

今日死んでもいいぐらいに、今日会う人を大切にする。
今日死んでもいいくらいに、今日しておきたいことをきちんとする。
今日死んでいいぐらいに、今日向き合っておきたい課題に精一杯取り組む
そして、今日死んでもいいくらいに、愛情を表現できたら、好きな人たちを思いやれたら、本当に悔いが残らないのだろうと、今この文章を書きながら感じています。

物事は大きなことをしなくてもいい、自分のしたいと思っていることをきちんとやっていけばいいのではないか、それが私の人生を積極的に生きるということなのではないかと思います。

社会の流れも、人の気持ちも変えることはできません。でも自分の人生から始められることは確実にあります。

私は霊的心理の勉強をする機会に巡り合って、多くの自分の過去生を振り返る機会を与えていただきました。
たくさん振り返った人生のほとんどすべて、闇の道を歩いた人生でした。
その原因の一つに、人生のあり方をいつも人に委ねてしまった、自分の人生に責任を持つという視点が欠けていたというものがあったように思います。

どんな時にも、自分の人生には責任があり、豊かな気持ちをはぐくめるように、積極的になる必要があったのです。
自分の命に執着して他人を落としめても生きようとするのではなく、自分の命を積極的に生きて、心により良いものを追求する気持ちです。
その生き方が光の道と言うならば、今生から私は光の道を歩きます。
二度と闇の道には戻りません。






2020年3月6日金曜日

今思うこと

テレビのニュースはコロナウィルス一色になりました。
小中高の学校が春休みまでお休みと言うことになり、イベントが延期や中止になって、少し私の体も緊張気味です。



早いうちから傾聴ボランティアがお休みになり、予定していたスケジュールも無くなって、正直意気消沈。今苦しんでおられる方もいらっしゃることをわかっているのに、やはり予定がなくなることは寂しい感じがします。
このような気持ちを、今たくさんの人が味わっているのだなあと思います。

ありがたいことに、介助できてくださる方々はいつもとても冷静で、日々のことは順調にこなせています。
私が介助者だったら、こんなふうに自然にいつも通りできるだろうか、と思うと、とても暖かく、心強い気持ちになります。
私は自分以外の人生に視点を移すことがとても難しいけれど、きっと違う世界観がそこにあるのだろうなあと思います。時間が許す時は少しお話を聞かせていただいたりしています。
また、9年前の震災時の気持ちも蘇ってきたりしています。私はその時は大きな被害を受けたわけではないので、そのことを思うと申し訳ない気持ちにもなりますが、何も感じなかったわけではなくて、その時も多くの不安や様々な気持ちに負けそうになっていたことを思い出します。

この数週間で感じたことは、世界は一つなんだ、と言う実感でした。
中国でコロナウィルスが広まり、日本に中国からの方々が来られなくなったことで、各地で経済が落ち込みました。
また、マスクが店頭から消えたことも、中国経済に支えられていたと言うことを自覚した事実でした。
武漢でウィルスが広がった時、日本のチャーター便が日本人帰国のために往復しましたが、その時多くのマスクを中国に寄付したと言うことを後で知りました。
気づかないところで助け合いがあったのだなと思いました(知らないのは私だけだったかもしれませんが汗)。
一つの国だけでは、何も成り立たない世界になっているように感じました。
本当に助け合わないと世界は成り立たないと言う気持ちになりました。

それから、恐怖を抱いた気持ちはとても大きく心を支配していくように感じました。
家の壁を越えて不安がやってくるような感じです。
トイレットペーパーの品薄状態はデマから始まりましたが、デマが真実になる経緯をテレビの解説で知り、ネットの時代の危うさを感じました。

コロナウィルスは罹患率は高くても死亡率は少ないとききます。今は本当に混乱していて分からないことが多いまま先の不安ばかりが煽られているような気がしますが、本当に医療の必要な人が検査を受けられ、病院にかかれる状況になってほしいと願っています。

私はと言えば、不安に弱い心を試されているように感じています。
霊的心理を師のもとで10数年勉強してきたにもかかわらず、いろんな内在した恐怖に、自分でもふわふわとした心を抑えられない瞬間が多々あります。
知人や友人、ニュースの言葉に、心が揺れるのです。
そう言う意味でも、落ち着いた介助の方々に助けられています。

どうにか心を保ち、平常に暮らしたいと思っています。

何か大きいことをしたいと言うことでなく、心を平常に保ち、毎日きてくださる人、気にかけてくださる人のことを思って、生きたいのです。


新しい家での暮らし

 しばらくぶりの更新です。 9年間住ませていただいた古い家と別れて、春から新しい家での生活が始まりました。 小さな一軒家。築50数年だそうですが、全リフォームしてある家です。 南側には大きなひさしがあり、玄関からは出入りできませんが、キッチン側の大きな窓が地面から低い位置にたまた...