2020年3月10日火曜日

私に足りなかったもの

コロナウィルスの問題が全国に広がる中、私は心に言い知れぬ不安を感じるようになりました。

言葉にするとそれは、

私がもし感染して、家に来てくださる多くの人にウィルスをうつしてしまったらどうしたらいいだろう

というものでした。

この心の火種は、日々流れるニュースの中で自分の外側の世界から同じような思いを引きつけてしまった気がします。
そして、個人的にいくつか予定していたことがなくなり、少なからずがっかりする自分の心が、落ち着かなくなっていったのです。

心が落ち着かない理由を、ずっと探っていました。

話は少し逸れて、少し暗い話になり読みにくくなってしまうかもしれませんが、私は昨年辺りからずっと「生きること」に執着を持たなくなりました。
積極的に生を終わらせたいということではありません。何がなんでも生きたいという、渇望が無くなったと言えばいいのでしょうか。
それまで、「自分が生き残るため」に何が必要なのかに焦点が当たり、そこから社会を見ていました。
なので、自分の身を脅かすような社会の流れがとても嫌いでした。
いつもその部分に恐怖を抱えていました。
自分が受けている福祉制度が安定して続くことばかり求めていました。
福祉制度が不安定になっていく要因に対して、いつも怒りを持ち、社会を斜にみて生きていました。

「生きること」に過度な執着を持たなくなった時、少し目線が変わって、今社会が抱えているさまざまな現状に、心が痛くなることが多くなりました。
目の前の人さえも助ける知恵がない愚かな自分に、無力さを感じました。

自分は何もできていないんだと、思いました。

それでも日々は過ぎていき、私の生活は日本の福祉制度の中で安定した時間を過ごすことができました。

そのなかで今回の問題が社会に起きました。

生きることに執着しなくなったはずなのに、生きていくこと自体がとても不安になっていく自分。社会の流れに冷静さを欠いていく自分。
何が足りなかったか、あるとき気がつきました。

私には、何があっても生きていく覚悟が、足りなかったのです。

私の体は、確かに誰かのサポートがなければ、日常生活がままならないという身体障がいがあります。なので、現実を踏まえて書くととても難しく感じてしまうのですが、

心のどこかで、頼るものを探し、そこに人生を委ねたいと思っていたのではないかと思ったのです。

生きることに執着することと、積極的に生きることは、全く別のことです。

私は生きることに執着することはやめました。何がなんでも自分を生かしたいという気持ちからは離れることができたのです。
それは、すべての命を自分と同等の命と認識することなのではないかと思います。
私と同じようにみんなも生きている、みんなと同じように私も生きている、という感覚です。
自分をむげに犠牲にはしないけれど、人を傷つけてまで生き延びようとは思わない、という感覚でしょうか。
人として当たり前だと思われるこの感覚が、私には少なかったようです。

この感覚は、私の中に生きることに関しての無力感のようなものを感じさせるようになりました。どのように、生きることを考えていったらいいのか、わからなくなったのです。

それでいて、価値観に合わないようなことが起こると、いつも戸惑い、暗にその出来事を拒絶する日々が続きました。

今回の社会の大きな出来事の中で、「積極的に生きようとすること」が私にはできていなかったのではないかと思いました。
「死ぬ気で生きる」ということです。
生きることに執着していないと言いながら、死ぬことは怖くないと言いながら、生きることにこんなに怯えるのはなぜだろうと考えて行った時、「死ぬ気で生きていない自分」に気が付いたのです。
がむしゃらに生きるとか、そういうことではなく、「今日死んでもいいと思ってベストを尽くす」という気持ちが薄かったのです。
つまり、今日を生きる覚悟が、足らなかったのです。

今日死んでもいいぐらいに、今日会う人を大切にする。
今日死んでもいいくらいに、今日しておきたいことをきちんとする。
今日死んでいいぐらいに、今日向き合っておきたい課題に精一杯取り組む
そして、今日死んでもいいくらいに、愛情を表現できたら、好きな人たちを思いやれたら、本当に悔いが残らないのだろうと、今この文章を書きながら感じています。

物事は大きなことをしなくてもいい、自分のしたいと思っていることをきちんとやっていけばいいのではないか、それが私の人生を積極的に生きるということなのではないかと思います。

社会の流れも、人の気持ちも変えることはできません。でも自分の人生から始められることは確実にあります。

私は霊的心理の勉強をする機会に巡り合って、多くの自分の過去生を振り返る機会を与えていただきました。
たくさん振り返った人生のほとんどすべて、闇の道を歩いた人生でした。
その原因の一つに、人生のあり方をいつも人に委ねてしまった、自分の人生に責任を持つという視点が欠けていたというものがあったように思います。

どんな時にも、自分の人生には責任があり、豊かな気持ちをはぐくめるように、積極的になる必要があったのです。
自分の命に執着して他人を落としめても生きようとするのではなく、自分の命を積極的に生きて、心により良いものを追求する気持ちです。
その生き方が光の道と言うならば、今生から私は光の道を歩きます。
二度と闇の道には戻りません。






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 しばらくぶりの更新です。 9年間住ませていただいた古い家と別れて、春から新しい家での生活が始まりました。 小さな一軒家。築50数年だそうですが、全リフォームしてある家です。 南側には大きなひさしがあり、玄関からは出入りできませんが、キッチン側の大きな窓が地面から低い位置にたまた...