最近、いくつかの出来事の中で、自分の生活を振り返る機会がありました。
福祉制度を活用して生きる、と一言で言っても、考えてみるといろんなことがあったなあと。
25年以上たった今、ひとつ一つの出来事はそのほとんどが小さなことのように感じられます。
今の生活は、とても等身大の感覚で暮らせていて、時間も私なりのスピードで流れていっているように感じています。
ただ考えてみると、いろんなことがないわけではなかったのです。
ホームヘルパー制度の中で、一日置きにしか介助が受けられなかったり。
モデル的な制度の中で、私の介助内容が市の福祉課の問題になってしまったり。
引っ越すたびに一から行政と話し合わなければならなかったり。
福祉精度が変わるたびに混乱したり。
支援団体が変わったり、職場が変わるたびに介助体制も変化したけれど、大丈夫、何も問題ないという格好をつけてしまったり。
思いもよらないところで人と別れることになったり、嫌われてしまったり。(私も自分が見えていなかった時間が長かったです。)
もちろんたくさんの人たちに助けていただいた人生だったけれど、私なりに、何も苦労していなかったわけではなかったかもしれないと、最近感じたのです。
やっばりね、いきなり、制度があるからってそれを行政に申請しようと思っても、自分らしくうまくいくようになるには、それなりの体験が必要なんだと思います。
自分に必要な介助がどんなものなのかということも、体感の中で培っていくものもあるのだと思います。
自分の障がいをどう捉えるか、体が動くのか、動かないのか。自分でやろうと思えばできると感じているのか、できないと感じているのか。
生活に対する物理的な考え方は、やがて、自分はどうこの人生を生きるかという難題に向かっていきます。
どのような世界で生きていても、それは簡単ではない、ということ。
それを私は今とても実感しています。
だから目の前の人の生き方を、心から知っていきたいと思っています。できる限り、理解しようと努力したいのです。
私が日常の中で無意識に受けている、「上から目線」を、学びとして、目の前にいる人に向けることをしないように。
失礼な態度をとる人と出合ったら、私も誰かにそうしたことがあるのかもしれないということを心に思い出して、
できる限り、知りたい、理解したいと思っています。
私が人からの「上から目線」を不快に感じるということは、私もその要素を人に晒しているということなのでしょう。
失礼な態度に心を揺さぶられるのは、その部分をまだ整理できていないと、その人を通して教えていただいているのでしょう。
そのことを忘れずに歩いていきたいのです。
私が選んだこの地域、生きていくことを選んだこの地域で、なんでもないことのように日々の迷いを乗り越えて生きること。
あの人は能天気ねえ、と噂されながらも、見えない部分でしっかり生きていきたいと思うのです。
しっかりと生きる、誰の目がなくても、あっても、そうありたい自分を見失わずに生きていきたいです。