私は、今でも、経済活動に乗れなかった自分の生き方を心のどこかで卑下し、引け目を感じているようです。
もともと、仕事をもつことで自分を保っていたところもあり、全て手放した時は、もしかしたら違う道にたどり着くかも知れないという淡い期待を抱いて、就職活動をしたりしました。
なにか、誰かに「がんばっている人」と思われていないと、自分がなくなってしまうような気持ちになったりもします。
気持ちというものは、弱いものだと思います。
このような気持ちが湧いてきてどうしようもない時は、文章を書いてみたり、なにかチャンスが転がっていないかとネットにはまって落ち着かなくなったりすることもあります。そうしながら、今の私ができることは何か、改めてまた振り返るのです。
最近そんな中で気がついたことがありました。
ああ、私が今いただいているものは、福祉手当等の生活費だけではなく、介助の方への人件費も入るのだ、と。
全てが、私が生きることに対する報酬なのだと、ふと思えたのです。
仕事でもらう報酬は我慢料だという話を聞くことがあります。
忍耐が必要な事態を、お金をいただいて経験させていただいているという意味でしょうか。
私はどうしても、経済活動をしていない自分を責める気持ちがありましたが、全てが私の報酬なんだと思いついた時、
ああ、それならば日々の生活でベストを尽くしてみよう、
と心から思えたのです。
報酬をいただいているということは、私も相応の物を提供する必要がある、
変な考え方かも知れませんが、そう考えた時、自分が生きる時にいただいている全てのものに意識して、ありがたく思えたのです。
今の私の力量でできることは、とても小さなことかも知れないけれど、私なりのベストで生きてみようと、思えました。
いただいているものに対して、それがなくなるかも知れないという不安や、もらい過ぎてはいないかという疑いや、もっと違うものが欲しいという思いを、うまく整理して、
今日の分の自分なりの働きをすればいい、やっとそう思えました。
そう、その役割は、私にしかわからないことでいい、誰かの期待通りにならなくていいし、誰かに認められることを欲しなくていいのです。
大事なことは、私らしく行動すること。私の愛を表現すること。それだけ見失わなければいいのです。
生活が変わっていくのならば、仕事が変わっていくなどと思えばいいことでした。
思えばいつも一つ一つ整理しながら、四半世紀を超えて地域で生活させていただきました。
今の私の生活は、思い起こせば一番穏やかです。この穏やかに過ぎていく時間を、大事に生きていきたいと改めて思いました。