3年前のこの日は自宅にひとりでいました。
きき手の小指をケガしたばかりで、あまり動ける状態でなく、だから揺れがひどくなったときも、出入り口代わりの玄関の窓を開けたり閉めたりしていました。
テレビをつけるとひどい現実が映っていました。
ネット上で友人の状況を把握するのに集中していたら、電話が鳴りました。
私を心配した妹からでした。
実家に無事を知らせる連絡を取ったあと、ずっと介助派遣を依頼している自立生活センターと夕方からの介助のことでやりとりしていました。
この日、私は生活のケアを受けることができました。
携帯メールを時々手動で強制受信すると、ある車いすの友人から「家に帰れないかも知れないからもしもの時は泊めて欲しい」というメールが入っていました。
家がバリアフルなこと、私がケガしていること、とても狭くて車いすで動けないことで、うんと言えない私がいました。いつか友人が泊められる家に越さなければと思いました。
つぎの日に来て下さった方は、普通に私のケアをして下さいましたが、実は帰宅難民になっていて、朝ご飯が食べられないまま来て下さったのでした。
一緒に朝ご飯をたべながら、泣きました。
私は、それでもやはり自分の中に無神経さがあったように思います。
都心は、一人一人の心の中に小さなパニックが起きていたように思います。
もちろん、甚大な被害を受けられた方々を思えば、とても小さなことなのですが。
人の恐怖や不安にふれるたびに、誰かが来て下さることで成り立つ生活の現実を感じ、生きていく意味を考える時間になり、心が揺れ続けました。
ただ1日1日、生活できていることに感謝をしようと思ったのでした。
知人の、この日の体験談を聴きに行ったのは、ずっとずっと後。
その間、知人を通して、都心に避難してこられた友人には会いに行くことができたけれども。
お米が買えなかったり、トイレットペーパー探しにさまよったりしたけれど、知人たちの体験を思うと、ここに書くことではないのかも知れません。
原発やエネルギーの問題が、人を大切にする方向に向かいますように。
被害に遭われた方々の状況がよくなる道を、日本が進めますように。