2014年8月8日金曜日

想像力と感情と。

例えば、自分を何度もいのちの危険に追いやった人を、助けられるだろうか。
その記憶がもしも鮮明にあったとして。
大切なひとを奪い去った人間に、救いの手をさしのべられるだろうか。

このブログは、ヒーラーのお仕事をさせてもらうことになったときに、そのホームページ用としてつくったブログだった。
今はその意味を逸していて、(ほとんどその意味を成していないのですみません)。思いついたことから書くようにしてきた。
そうしないと何から書いていいかわからないし、かっこつけてもすぐに続かなくなってしまったから。
書きたいことを無理せず書くことにしたら、かなり自分本位なブログになってしまった。

このブログの本来の役割に戻せば、いきなり私が「自分の過去生」についてこの場で書き表してもいいのかも知れない。
けれど、やっぱりいきなりは書けない。
どのような書き方で書き進んでいったらいいか、今はまだわからないから。

ただ、たくさんの自分の過去生の断片を見てきて、同じような失敗ばかりしていることに、この数年戸惑い続けてきた。
どうしてなのか、考えてもわからなかった。

きのう、ひとつ気がついた。
人は、例え何度生まれ変わっても、自分が望んだ生き方でしか生きられないということ。

私が偏った生き方の記憶を重ね続けてきたと言うことは、もうひとつの生き方を選ばなかったと言うことだったんだ。

そこに、私の、人への興味の欠如という問題がある。

私は、常にいい人になりたいだけで、薄っぺらい正義感やルールのなかで妄想していた。
相手不在と言うことはそういうことだった。

自分が誰かの犠牲になろうなんてこれっぽっちも思わなかった。

ああ、ここだった。

愛している人がいるのならば、その人のためにどんな犠牲を払ってもいいと、思う瞬間を味わえるはずだ。

表面を見せるためでなく、内面で身近な人を愛していくこと。
これが私はできていなかった。

私の犠牲になっていく人たちに、ただ甘えていたんだ。
そして自分本位に、自分の感情だけに注目して生きてきてしまった。

愛は求めることではない。

人の気持ちにより添い、その感情に寄り添う。
それを私は心でわからないといけない。


人はある日気付くらしい。
その人の受けた痛みを知りたいと。
そして生き方を変えていく。

私はそれができていなかった。
こどもだった。


心で知っていくことを心がけなくてはいけない。
そして覚えなくては。
残念ながら肉体はもうこどもではない。
おいがはじまっている

この人生が終わるまでに身につけたい。
ここまで来るのにもすごく時間をかけてしまったけれども。

努力するしかない。

全は一、一は全

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