2020年2月29日土曜日

みてみたい世界

何がなんでも生きていきたいと心の底から思っていた若いとき、夢がたくさんありました。
  ①  一人で生きていきたかった、
      自立しているという実感を欲していました。

    ②仕事を持ちたかった、
       自分のできるのはこれ、という確固たるものを欲していました。 
 
    ③自分の家族を作りたかった、
       一緒の空間で笑い合える私の家族と呼べる人と巡り会いたいと欲していました。

いま、形は違うけれど、どれも叶っているように思います。
一般的なものではないし、私が望んでいた形ではなかったけれど、どれも叶っているのです。

①は、福祉制度や、それに関わって支えてくださる人がいて初めて成り立つことだけれど、日々の悩みの中で、私は自立を意識しています。
 自立とは、自分にとって自立とは何かということを問い続けることなのではないかと今は思っています。
 なので、私は今私なりに人生を生きている、意識しているから自立と言う中に入るのではないかと感じています。
 一般常識の自立が経済活動、生産的な活動ができることと身の回りが整えられることであるならば、できていないということになりますが、私の価値観の中では、自立した生活だと思って生きています。
日本の福祉制度が変われば私の生活も大きく変わってしまう現実はありますが、変化や不可抗力のものというのは、障がいある体で生きているから起こりやすいというものではなく、どんな人にとっても起こるもので、変わっていくことは避けられないことでもあるように思います。
私は私の現実のもと、自立のあり方について考える日々ですが、どの方もその方の現実があり、そのことからは逃れられるものではないのではないかと考えます。
それが辛いとかそういうことではなく、そういうものなのではないかと思っています。

②は、そうですね、金銭をいただけるお仕事のほとんどを、私は手放してしまいました。
そしてその後、本当にそれで、よかったのか、ただでさえ仕事を得る機会などないのに、それをわかっていて手放して良かったのか、経済につながらない私の「仕事」はなんなのだろうと思いながら、ここ数年は生きてきました。
今もまだ結論は出ていないし、考え続けているのですが、
ボランティア活動をしようと思ったとき、少し吹っ切れた気がしました。
お金が絡まなくても、真剣にできることがある、そうようやく思えたように思いました。
私が経済的に人並みになりたいのは、世間に、私は食べていけると示したい、特に親にそう思われたいという気持ちが強かったようです。
でも実際の私は、頭で何かできるほど知識はないし、努力もしてこなかった、
        体で何かをできるほど軽い障がいではなかった、
        一つ秀でたこともなく、技術も身につけてはいない、
という現実があります。
何かできるのではないか、という幻想から抜けて、今できる小さなことからやっていくことなんだな、と今は思っています。
 
③は、考え方を変えたということがあります。私が、周りの方のことを家族のように思い、生きることで、私が多くの知人を作り、その方々を家族のように子思うことができる、ということです。
それで今は十分なのではないかと思います。
きっと私こそが、家族愛をうつくしく優しいものだと勘違いしていたのだと思います。
今日会えた人を大事にできたら、今日を大事に生きられたら、人がそれをどう思おうと、
生き方としたらOKなのだしと思うのです。

私の話の前振りが長くなりましたが、
このように個人的には思いが叶い、もう今はあまりどうしたいという欲は感じられなくなりました。
(ただ、最近の心境の変化で、ああ私は現状維持をしたい、今の生活が壊れることを恐れている、と自覚はしました)

ただ、長い長い目で見て、自分が見てみたい世界があることに気がつきました。

それは、地球上の全ての生き物が共存し、ともに育ち合う世界です。

人間である私の目からそれを見ると、

人が植物の世界と動物の世界を完全に理解し、鉱物も大気についても全てを知ろうとし、生きるためにいただく命に感謝し、それぞれの生き方を尊重できる世界を、私は見てみたいのです。

人と人は殺し合うのではなく、奪い合うのではなく、話し合いと適切な距離感でお互いを尊重し、敬愛して生きていけるのではないだろうか、
生きていくのに必要な分だけ命をいただいて、いただいた分なにか貢献できるものがあるのではないだろうか、
そのために、私はいろんなことを学ばなくてはいられない、さまざまなことを知らなくては本当にできることにたどり着けない、
そう感じるようになりました。

本当の助け合いとはなんだろう、支え合うこととはなんだろう、地球の住人がまるごとみんなで生きていくには、どんな知恵が必要なのだろう、
自然と暮らしていくとはどういうことなのか、生物の一員として考えなくてはいけないこととは…。知りたいことはたくさんあります。

そして、その一員として、私がやりたいことはなんなのだろう、と思います。

私は自然が大好きだけれど、動物を飼いたいわけではなく、自分で植物を育てたいわけではありません。
確かに今の人生では、自分の手では動物や植物に的確なお世話ができないという現実もありますが、例えば象が好きでも、動物園に行って象に会いたいわけではないのです。象は象の住んでる土地で、暮らしていてほしいと思うたちです(動物園自体は嫌いではなく、たまに園内を歩いてみたいと思うことはあります)


自分でもよくわかっていないようには思いますが、自然は好きなんだと思います。

自分が本当にやりたいことなのかは、定かではなく、変わっていくかも知れませんが、
人生を転んでしまった人たち(犯罪を犯したり、人を加害してしまった人たち)が、本当の意味で立ち直るお手伝いができたらと考えています。
今回の人生では難しいですが、いつか何度かの転生を経て、そういう道にたどり着きたいと考えています。

そして、夢物語のようになってしまいますが、今後の人生(来世以降)で毎回副職でやりたいことは、障がいある方の日常生活のサポートです。
この仕事は何度転生してもかならずやっていきたいことです。でも副職です。メインではありません。
やりたい理由として、
1 今回の障がいある人生でサポートを受けるという経験をしたので、反対の立場を経験したいという思いがあります。
2 今回受けた御恩を、返していきたいという気持ちがあります。
3 障がいある立場の人生は、誰かの具体的なサポートなしでは生きることがとても難しくなると学んだからです。

そして、メインでやりたいと思うことに、遠からずつながっているようにも思えるからです。
いろんな道があって、いつかたどり着く道へ行きたいと思っています。

いつか見てみたいのです。もっと私自身が視野を広げ、成長した時に、
目に見えるせかいが、どのようにうつるのか、どんなに美しいのかを。
私も小さな場所でその一員でありたいと、なにか少しでも役に立つ一員でありたいと、願っています。

そのために今生では、忍耐と知識と愛の表現を、身に付けたいと思っています。
いつも課題に現れるのは、「聴く力」と「受け入れる」ということのお試しの課題です。

自分を理解して高めていくことは、本当に難しいことなんだと、毎日のように感じています。
そしてこの文章も、ぶっ飛んでいますね。汗


新しい家での暮らし

 しばらくぶりの更新です。 9年間住ませていただいた古い家と別れて、春から新しい家での生活が始まりました。 小さな一軒家。築50数年だそうですが、全リフォームしてある家です。 南側には大きなひさしがあり、玄関からは出入りできませんが、キッチン側の大きな窓が地面から低い位置にたまた...