2020年2月19日水曜日

誰かと一緒に過ごす日々

私が自立生活(福祉制度を受けて一人暮らしをする生活)を始めて、27年が経とうとしています。
20代後半だった年齢もとてもいい歳となり、身体的にも少しずつ変化しているようです。でも今のところ、小さな世界ですが充実した日々を過ごしています。

私の日々の生活は、「重度訪問介護」という枠の中で介助派遣を受けています。
重度訪問介護とは、障害者総合福祉法の障がい福祉サービスの中に含まれる、介護給付の一つで、「体が不自由で常に介護を必要とする人の居宅や入院先で、身体介護や家事援助などを提供」するという形をとるものです。

最近、少し自分の生活を振り返る機会を持ち、改めてたくさんの人が私の生活に関わってくれたことを思い出しました。
今のように法律が整備する前、ホームヘルパーの時間数が今ほど認めてもらえない時代から、私は多くの方に生活に関わっていただきながら暮らせてきたのです。

先日、ある方とのやり取りで、介助に対する考え方や、あり方を自分なりに説明する機会があり、その時に気がついたことがありました。

「私は、介助を受けている時も自分の人生に責任を保とうとしている」
当たり前のことですよね。あえて書くことでもないことです。
そう思ってきました。

でも、このことはどういう認識なのか、もしかしたら体験から感じてきたことを書いた方がいいかも知れないと、ここ数日で思ったのです。
わかりやすく書けるかどうか、分からないのですが、私の価値観というか、考え方をまとめてみた方がいいのかなと思いました。

少しの違和感は、以前も感じたことがあります。
介護福祉士の問題集を解いていた方が、ふと質問してきたときです。

「この問題、何番だと思います?」

それは、ある方の支援のあり方だったと思います。
詳しいシュチュエーションは忘れてしまってここに書けませんが、
その例題にはその障害ある本人の判断というものが選択肢になかったことだけを覚えています。
周りの人が「支援」を考えている、本人が悩んでいない…。そんな感じがしたのです。

私の中の介助を受けての自立生活とは、楽しみを見つけたり、生きがい、やりがいを見つけてそれをやり続けるということの以前に、日々の生活を成り立たせるということがあります。
生活とは、身の回りのこと、つまり、着替え、歯磨き、洗顔、入浴、トイレ等からだを清潔にして保つことと、家事全般です。
食事を取ることは、調理をしてもらうのか、外でとるのかということを決めることを含みます。
その全般を私と一緒に、動いてくださるのが介助の方です。

私は身体障がいがあるので、自分で何をしたいか考えられても、実際には自分の体を使ってはできません。
なので多くの時間を介助の方と過ごし、家事全般と生活に必要な身の支度を整えてもらいます。

その上で私の社会生活が成り立ちます。

おかげさまで、多くの方がきてくださり、家の中はとても清潔に整っています。
今住んでいる家は古い家なので、ありの問題やネズミの問題、水道漏れの問題などいろいろおきましたが、その他に私には考える時間があり、悩む時間がありました。

私の身に起きる問題は、私自身が向き合う、そのスタンスを貫くことができています。

これは、介助派遣をしてくださる自立生活センターが障害者の自立支援という理念をきちんと持っているということ、介助者としてきてくださる方々が、私の生き方を理解しようとしてくださっていたことが、大きかったのだと、本当に思います。

誰かと一緒に暮らしている自分。誰かというのは血の繋がった身内ではありません。
誰かがいつも私に一緒に過ごす時間をくれたから、そして生きる責任というものを私自身に感じさせてくれた、というか、そういうことが考えられるのだと信じてくれたから、今もこうして私のままで生活しているのだと思います。

どんな書き方になるのかわからないのですが、このことを少しずつ書き留めてみようと思いました。
日々の出来事よりも、その出来事をどう思い、どう対処したかをかけたらいいとは思うのですが…。
それほど書くことがあるのか、今は不明なのですけれど。



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 しばらくぶりの更新です。 9年間住ませていただいた古い家と別れて、春から新しい家での生活が始まりました。 小さな一軒家。築50数年だそうですが、全リフォームしてある家です。 南側には大きなひさしがあり、玄関からは出入りできませんが、キッチン側の大きな窓が地面から低い位置にたまた...