2014年5月19日月曜日

私にとって介助って

介助の時間というのは、「生活に手助けが必要な時間」なのだけれども。

もし、私が自分本位に、「生活に手助けが必要な時間」だけを決めていたとしたら。
本当に「望む通りの時間配分で人に来て欲しい」ということになってしまいます。

たとえば、朝は今日はこの時間しかいらないとか、トイレの時は呼びますからその時に来て下さいとか。

「生活に手助けが必要な時間」というのは、「介助という仕事が成り立ち、介助の必要な人がその人個人の生活のどのサポートでも受けられるよう設定した時間」なのかも知れません。

埼玉で自立生活を始めた頃、教えたもらったことが、
「障がい者が自分の生活を自由していくために、介助者をどう雇っていくかを考える必要がある」ということでした。
行きたいときにトイレに行くということをどのように考えていくか。

介助の方の「待機」(今の言葉で「見まもり」)という発想を、私はこのときに教わったように思います。

一緒にいて下さる方のことを考えた、介助時間。

介助の方とともに生活する時間、という感覚。

最近、それを思い起こすような出来事があり、自分の介助時間の決め方について思い起こしました。

そこで働く誰かがいて、私の生活が出来ているということ。

私は、介助時間を自分で設定しています。
誰かから相談なく時間を変えられてしまうものではないと思っています。

でもたとえば、介助に入る予定の方がやむを得ないことで予定より短くなってしまう場合、または私の希望を少しずらすと介助可能ということがある場合、時間調整することがあります。

私の体の状態は、それが可能な状態なのかも知れません。
毎日、24時間誰かがいないと生活できない、と思うほど障がいではないと思うから。

私は私の体のままで、体験できることがあるのでしょう。

介助として関わる方と、私の生活をうまく互いにすりあわせて、この関係が続いていくのだと思います。

介助を受ける時間は私にとってとても大切な時間。
自分本位に設定した時間ではないから、サポートして下さる方と一緒につくる時間だから。
そして私の小さな日常の希望が叶う時間だから。

よく考えて設定し、入って下さる方といい時間を過ごしたいと思っています。

全は一、一は全

先日、知人に尋ねられて、そういうこともあったかなあということがありました。 銀座の歩行者天国のおはなしです。 数年前、ストリートパフォーマンスをそこでみたという話を、知人に私はしたらしく。 覚えていないのです、悲しいことに。 書きたいことは、忘れっぽくなったということで...