2019年2月5日火曜日

私を離さないで 原作を読んで

図書館に予約した本がすぐに来たので、読んでみました。

思っていたよりも優しい語り口で、これは翻訳者の方が良かったのかな、と思いながら読み始めたのですが、静かになぞを解くようにあっという間に読み終わりました。

なぜこんなに読みやすかったのだろうと、今考えています。
施設とか、隔離された世界の生活というのは、ある程度私には理解できる世界観だったのかもしれません。もちろん置かれた環境はまるっきり違うのだけれども。主人公たちの生活感が溢れていて、細やかで入り込みやすい世界でした。

他人の世界観に立つということは本当に難しいことなのですね。確かにそこにある命を、一方の側からは違うものにしか見えないということと、本人たちの生という当たり前の営みが大きくずれている事実が、とても悲しい作品でした。

丁寧に丁寧に描かれたその世界は、どんな環境下でも、どんな目論見があるところでも、生を受けたものは生きようとし、命は輝くということ。人がどんなふうに思おうと、たとえ医学や科学の発達でできていく命であっても、なんら変わりはなく私たちは一緒の世界を生きている同じ重さの命であるということを、言いたかったのかな、と感じました。

片方しか見ようとしなければ物事はその方向でしか見えず、この小説に出てきた主人公たちは残酷な道を行かなくてはいけないばかりなのだけれど、できれば多くの人に、この架空の世界は環境を変えて隣で起こっているかもしれないということ気づいて欲しいと言われているような気がしました。
架空だからこそ非現実な世界として最後まで読めるけれども、人は見知らぬ他人の命よりも見知った人の命を優先し、見知らぬ相手にも自分と同じ感情や思いがあるということを忘れてしまう中に生きているということを、そうやって世界が動いている事実を知らなくてはいけないのだと感じました。
自分の命も他者の命も大切にできる世界を作るために、小さな私の世界をどう生きたらいいのか、今私はすごく気になっています。

物語の終盤に出てくるセリフ、
「あなたたちがいつも怖かった」
エミリ先生の中にあった恐怖ってなんなのだろうと、今考えています。
本来持たないだろうと思われている人たちに心があると分かったとき、人が感じる恐怖なのでしょうか。それとも、物語に流れる架空の設定の中で、自分たちがその子供達を教育することで何が起こるのかという先行きの見えなかったものに対する恐怖なのでしょうか。

命を区別する側は、区別の理由を持っています。エミリ先生の感じた恐怖は、その理由が成り立たないという事実を本当は知っていて、その事実を大事に生きることを選んでいない自分が見透かされているかも知れないという恐怖でしょうか。本当に真の人間らしい愛を持った人間になれないのは、目の前の特別な子供達ではなく自分たちの側なのだということを、誰かに見透かされてしまわないかという恐怖なのでしょうか。

優しい文体でこの世界を表すなんて、本当にすごいことだと感じました。


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