2019年2月5日火曜日

受け身の生き方をやめるということ

私は、どういうわけか無意識に気を使ってしまう人に時々出会います。
関係性が悪いわけではないのに、その方と会うときは少し気持ちが張って、今日はどんな様子なのか妙に気になってしまうのです。

昔から、同じような雰囲気のする方との関係性は、緊張します。

その方は、私の持ってないものを持っているように見えます。
すごく人生を楽しんでいるように見えます。

それなのに、なんだかいつもお疲れのような、そんな雰囲気を感じてしまうと、今日は機嫌がいいのかどうか、気になってしまうのです。気遣う方向が外れちゃうといけないことをしたような、罪悪感が回ります。

最近、知人と話していて、そういう自分に気がつきました。会話に出るまで、意識なく、ただ私が察しが悪く、何か気がつかないことが重なっているから落ち着かないのだろうと思っていました。その日によって気分や体調が違うことは当たり前のことだし、それを毎回受け入れられない私の心が未熟なせいで気になるのだと思っていました。なので、変に気を使う自分を自覚できたとき、ハッとしました。

なぜ気になってしまうのか、なぜ相手の方の機嫌をとりたくなるような衝動を感じてしまうのか、少し考えてみました。

すると、自分の、人に対しての関係作りの課題がみえてきました。

数年前まで、私は精神的に本当に子供で、自分よりも精神的に大人の人としかうまく関係性がつくれませんでした。つまり、相手の方が理解してくれなければ、私からは相手の方を理解しようとすることができなかったのです。

最近は、自分ももし子供を産んでいたのなら成人するぐらいの子供がいるような年齢となり、年齢差を感じる方々と出会うと、まず話を聞いてみたいという気持ちが生まれるようになりました。これはふしぎな心の変化でした。

出産もしてなく、結婚もしなかったし、若い人と多く接する仕事の縁もなかった人生でしたが、少し目線を変えることができたのは、ヒーリングサロンでいただいた一つのアドバイスも原因の一つだったと思います。
「あなたが親の目線を持てば、世界中の人があなたの子供になる」
この言葉は今も心の中に生きていて、ことあるごとにはっきりと聞こえてきます。

あまり経験のないのは、子供の部分を持つ大人の方とのおつきあいです。
つまり、私の持っている部分と同じようなものをもつ方々と関係を深めることが難しいのです。

そう、書いてみて気がついたけれど、子供大人だったのは私自身でした。分別ある能力を持った大人と認めて欲しくて、できることをアピールしてみたり、知識をさらけ出したりしますが、自分の感情をコントロールすることもできないで、周りの人々に気を使わせてしまう、自分はうまくできていると思っているので、不合理なことに出会った時に相手がどうすれば自身が犯したミスに気がついてくれるのかと、そのことばかり考えてしまう、この考えのあり方はまさしく私自身のことでした。

そうすると、そういう私のことを周りの方は理解しようと思いやってくれて、付き合ってくれたということになります。私に合わせてくれたということです。

今私が悩んでいる人間関係は、私が多くの方からいただいていたものを恩返ししていけばいいということなのかもしれません。
それが私の、人を思う経験の一つになるのかもしれません。

今から思うと、その頃の私は、実は人生を自分の意思で生きていませんでした。
このブログに何度も書きますが、人並みに扱われる人生を望んでいただけで、人並みに考えられるように努力して生きることに欠けていました。

これは今だからわかることです。その頃の私は、人生を積極的に生きていると思っていたし、思ったように生きられる自分に満足していました。無意識の怒りは社会に向けられていました。

子供大人、つまり、まだ自分を見出せてない頃は、無意識に自分をアピールしたり、周りを責めて自分の正当性を確かめたくなるものです。自分を気遣ってくれない世間はなんと心が狭いのだろう、未熟なのだろう、私の言葉がなぜ理解できないのだろうと思ってしまいます。
私もまだその部分を捨てきれていないようです。だから冷静にことが見られないのかもしれません。

受け身の人生をやめるということは、自分の生き方を見直す力を養うということなのかもしれません。改善点は自分にあり、世間にはアイデアを提供したりリクエストすることしかできないのかも知れません。自分の心を改善していこうとする意思は、生きる目的を見つけていなければ難しいことかも知れません。

その時の会話で忘れられない言葉があります。
「経験だけでも意味がない」
「でも、多くを経験しないと、自分を振り返る力がつかない」

そうですね、今私が「自分がいたらない」の自覚できているのは、多くの経験の中で「失敗」を感じ、「恥」を感じ、自分ができていないということを、ある日、理解できてからだと思います。その友人もそう、だからこの話ができたし、そこに信頼を持っています。

そう思うと今の私の生活は、私が学ぶ必要があることが、形を変えて随時起こっているということになります。
そして、そのことを会話で確認できる友人に出会えているということも、私が感謝していきたい事実の一つなのだと感じています。


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