2019年7月24日水曜日

3時間の会話

友人と久しぶりにゆっくり話しました。吉祥寺の美味しいチーズケーキをいただいて、あれこれ話題が移り、あっという間の三時間でした。

気づいたことが一つ。私は最近まで、基本的なことができていなかったんだという気づきです。

私は最近、障害があることで自分の手でできない物事について、「できないものはできなないし、できないことでいい」と思い始めています。
介助の方が毎日来てくださっていることで私の生活が成り立っていますが、自分でできないことは人にやってもらって、それが「自分でできたこと」というように納得しながら生活していた時期がありました。
その頃は、自分の思うようにしたいことが進まないと、自分の伝え方が悪いのだと思い、言い方を変えてみたり、工夫を考える日々でした。

最近、自分の介助を頼むという感覚が、介助の方と一緒に時間を過ごすという感覚に変わりました。
できないことをやってもらうことには変わりはないのですが、「私のやり方」とか、「できないことをできることにする」という感覚が変わり、「私の生活をいろんな人のやり方でサポートしてもらっている」という気持ちになったように思います。
もちろん、やり方を伝えることはするけれど、そして、して欲しくなことがあるときはそれも伝えているけれど、自分のやり方が絶対で、介助の方はそれを実現してもらう人、という目線が変わったように思うのです。

そして、サポートを受ける側、利用者という枠に自分をはめてしまうのではなく、誰かと一緒に過ごす時間であり、自分のできないことをしてもらう時間として大切に考えるようになったのです。

何が変わったのかというと、他者に、自分のできないことを頼むということがどういうことなのかということを、ようやく理解できたのだとと感じています。

自分のできないことは他者にお願いしてやっていただく、という気持ちです。

その友人は、不思議そうな顔をしていました。
「お仕事で来るのだし、頼まれたことをするのが仕事だからなあ」

でも話しているうちに、友人も、自分のできないことを人にやってもらう時の気持ちを、つまり例えば経営者が全てを自分の手で賄えるわけではなく、働いてもらう人に対して気を使うものという本来の気持ちがある、ということを語ってくれました。

この気持ちが私にはなかった、ということに気がついたのでした。

友人は、私のいいところを見てくれている方なので、そこはできていたのではないかと思ってくれていたようですが、私は実はそこが欠けていたのでした。


運よくそこを見抜いてくれた人と巡り会い、わかりやすく指摘してもらったことで今の私がいますが、もしそのことをわからずにいたら、なぜ自分の言葉が人に伝わらないのかと、いまだに悩みあぐねていたことでしょう。

人は自分の価値観から人を理解しようとします。友人は自分の価値観から私を良い方に理解しようとしてくれていたんだなと思いました。

こうして書いてみるとわかりやすくかけなくて、申し訳ないことですが、今回の時間の中で、自分が変化していったことを気づき、いい時間をいただいたなあと思いました。

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