2018年6月24日日曜日

自立について

今日、個人セッションの中で、前回書いた「月の恋人」というドラマについての感想を話していたのですが、そのときに気がついたことがありました。

「人は自立していないと、人に迷惑をかける存在としてしか生きられず、人を助けることはできない。愛されたいと思うばかりで、愛することをしないので、愛されたいという考えから離れることはできない」

ここまで話したときに、師から、

「だから、自立がテーマだつたんでしょう?この勉強を始める前から、一人で生きていこうとしていたんだよね」

この言葉をかけられたときに、ああ、私は自立、つまり、一人でも生きていける人間になりたかった、ということを思い出しました。

何よりも、誰かに依存しなくては生きられない生活はしたくなかった、誰かの心に依存して生きることしかできない状態から脱して、何があっても自分からそれを受け止める心を持ちたかったし、そうやって日々を過ごしたかったのです。

だから、実家を出たことは間違っていなかったし、多くの人と出会って、微かな歩みだったけれど、ここまで歩くことができたのでした。そして、大事な人は自分から手放してはいけないと思うようになり、ご縁を私なりに大事にできるようになりました。

障害を持って生きるということは、経済的に一人でやっていくという自立とは程遠くなりました。もしかしたらもっと死に物狂いに生きたらよかったのかもしれないけれども、私は今の生き方が精一杯でした。それでも、会うべき人には巡り会えたようだから、これでともかくよかったのかもしれません。

私にとって自立とは
計り知れない自分の心の有り様を知ること、つまり一番怖いのは自分の心てあり、向き合う必要があるのは自分であるということ。
人は一人では生きられず、だからこそ人を理解し協力して生きることなんだとわかること。
人は理解をしてもらう対象ではなく、理解していく対象なのだと知ること。
何かを求めるのではなく、与えようとる心を持つこと。
でしょうか。

誰かの評価を期待しているうちは、私はまだまだということにもなります。

そして、自立をして初めて、人を助けようとする心が育ち始めるということ。
これは同時進行だとは思いますが。

人の心を理解したいと思うようになったことは、私にとってようやく自立の一歩を踏み出せたということだったかもしれません。

私の自立感など、多分他者には理解できないことだと思います。
なぜなら世間的には、いわゆる自立の概念を逸しているように感じるから。
経済的にも、身辺的にも、制度や人の助けがないと生活はできはしないから。

これが自立です、と、声を大きくして、理解を求めていたのが、私の人生でした。

でも自立って、誰かに理解されなくても、認められなくても、自分らしく心に責任を取っていく姿勢があればいいのかもしれません。

例えば、約束を守るとか、人の気持ちを大事に考えるとか、そういう見えないところから大事にしていれば、それでよくて、
つまり自分の品位を育て、少しでもマシな人間になろうと見えない努力をできるならば、それでいいのだと今はおもいます。

体が自由に使える人生を生きられるなら、体を使ってその思いを表現すればいいけれど、今はそれができないという現実を生きているのだから、できないという前提の上で自分の心を育てていけばいい。それが自分の心に責任を持つことだと感じています。

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