2014年7月23日水曜日

立ち止まる

なんのために、生きてきたのか、と書くと大げさになってしまいますが、
50歳を目の前にして、なんだか、ここまで生きてきた意味がわからなくなって,立ち止まっています。

私の行動ひとつひとつが、あやうくなって、どう整理したらいいか。
今が踏ん張り時のような感じです。

何回か書いたようにも思うのですが、以前の私は
「障害を持っていてもあたりまえに暮らす」
ということを目的に生きてきました。
どういうことかというと、できる限りふつうに過ごすと言うことです。
生活について、ひとりで暮らし、仕事を持って、私なりの家族をつくり、家庭を大事にして、仕事を生き甲斐に生きること。
こどもは欲しいとは思いませんでしたが、いっしょに生活を分かち合える人には巡り会いたいと思っていました。

私には欠けていたものがありました。
なぜ仕事がしたいのか、
なぜ家族が欲しいのか、
ということへの理由です。

社会の役に立ちたい、という、仕事に対しての正当な理由の奥には、
「私もいい仕事ができるということを社会に認めさせたい」
という気持ちがあったようなのです。

家族を持ちたい、自分の家庭を大事にしたい、という思いのうらにも、同じように気持ちがあったように感じています。
誰を大切にしたいか、という中身がなかったのです。

ものごとは形式でなく、本質の中にしか大切なものはなく、私にはそれがわかりませんでした。

人は、私にとっていつも「不在」だったのかも知れません。

私は誰かのために働きたかったのではなかった。
これは自分の心の中のこととはいえ、衝撃的でした。

私が今まで感じていた生きる目的は、私の不満を満たすためのものだったのでした。

それが壊れてしまった今、自分が何をしたら満たされていくのか、手探り状態になりました。

愛されたいという、愛されていると実感したいという、内なるものの存在はわかります。
そのために、たぶん生きてきたのです。

そのために求め続けて、間違えて来たのです。

人から愛される事を求め続けると言うことは、受け身であると言うこと。つまりこどものままで、成長できていなかったと言うことです。

人を愛していけるのか、今私が毎日生活の中で起こしていることは、愛がこもっているのかどうなのか。
わからなくても、どうであっても、やってみるしか道はない。
間違えているとおもったらやり直すしかなく、どうしようがなくてもいただいたいのちをまっとうすることが、最低限私が果たすことのできる責任です。

戦争のないこんなに恵まれた環境の中で、何不自由なく自立生活を続けられ、考える時間が与えられています。
戸惑っていても、正しい判断ができていなくても、ひとつひとつ考えて、やってみるしか方法はなく、そのように今生きられることに、私はもっと感謝の気持ちを持つ必要があるのでしょう。

私にもっと必要なのは、人に対する『おそれ』であり、それが謙虚な気持ちを生むのだと思います。
おそれとは怖がるという意味ではなく、謙虚になるという意味合いです。
それは、普段御世話になっている方々が、それとなく態度で私にみせて下さっています。謙虚さのない態度がどんな印象を与えるかも、見せてくれる人がいます。
きっと私もさんざん、こんな思いを人にさせてきたのかも知れません。

感じない心を感じるように鍛えることも、感じすぎる心を感じすぎないように鍛えるのも、私には難しいことですが、

やらないと。もう半世紀生きてきたことになってしまうのだから。
やり残しがないように。
ああ、でもできるかな、ずっとできなかったことなのにな…。

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