自分の人生があと一ヶ月しかないとわかったら、どのような気持ちになるだろう。
その時になってみなければわからないけれど、小心者の私のことだから、きっと大げさに騒いで周りに迷惑をかけて、時間をかけて受け入れていくか、それとも受け入れられないまま流れていってしまうか。あまり優等生になれないような気がする。
では、身ごもった子が生まれても一ヶ月しか生きられないと事前にわかったとしたら、私はどうするだろう。
妊娠したことがない私は母の気持ちが今ひとつわからないけれども、もし何も知らないまま子どもを産み、その子が一ヶ月しか生きられないとわかったとしたならば、私はその一ヶ月間を大切に大切にするだろう。医療に囲まれながらも、許される限り、その子が幸せを感じるように、たくさん抱きしめ、たくさん歌い、たくさんキスをするだろう。あくまでも想像でしかないけれど。
では、あらかじめ知らされていたら、私はどうするのだろう。妊娠1、2ヶ月でわかったら。
他の場合ではどうか。
身ごもった子が、命に別状がないけれど、五体満足ではないとあらかじめわかったとしたら?
私は、どんな心で、どのような選択をするのだろう。
前もって将来の子どもの可能性を知っていたら…。
出生前診断の怖さは、私はここに感じる。
今の私は、さまざまな人生のあり方があるということを少しだけ知っている。歩けなくて見、みえなくても、聞こえなくても、話せなくても、意志が通じにくくても、その人の人生があり、生きるかたちがあるということ。たくさんの人たちが、私に教えてくれたことだ。
でも、前もっていろんなことがわかってしまっていたら、私はいつも「産む」という選択をするだろうか。
いろんな人がたくましく生きているということを知識や経験として持っていなかったら?
周りが「丈夫な赤ちゃん」をのぞんでいたら?
自分も家族も多くの生き方を受け入れられない青さをもっていたら?
未来を知ると、判断がかわる。命を選別する立場に自然になっていく。
そんな選択肢がまたひとつ増えてしまった。
障害がある私ができることは、幸せな生き方をしていくことにつきるのだろうか。
どんな境遇に生まれてもひとつの人生。ひとつの選択はその人の人生の小さな歴史になる。
私のいのちは摘まれなかった。
たしかに、幸せを感じるまでに時間がかかった。
家族が、私がいたことでどうであったかまでは、私の範疇で答えられない。
生きてみてどうであったかは、死ぬときにしかわからないだろう。
苦労しているときは、苦労でしかないだろう。
多くの方々が選択していくのだろうか。そして中絶していくのだろうか。
未来はただ想像の中だけ。必要なのかも知れない経験の場は閉ざされる。
それでいいのだろうか。
どう私は心を整理してみようか。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120829/bdy12082911260002-n1.htm