2018年2月21日水曜日

かけ違えたボタン

成人してから、なぜか責任者になることが多く、変にその経験をたくさん持っている私は、どうしても人様に対して態度が大きくなりがちになってしまうようです。ことば使いも非常識だったり、変に対等性を意識してしまったり。若い時から生意気な口をききがちで、それはとても自覚をしていました。

おまけに言い知れない怒りも抱えていましたから、やはり性格が悪かったのだと思います。

最近だいぶ静かに過ごせるようになったものの、まだ問題は解決しておらず、ある方が私の上から目線を指摘してくれました。

どうもとっかかりの話題が、私が未だ過反応することだったらしく、そこから自分の価値観で受け答えをしていたみたいです。

みたいですと書いているのは、それらが無意識だったからです。

古くからの知人は、私がそういうところを持っていることを知っていて、
「時々まだ反応する部分があるよね」
と。

それでも最初はあまり理解が深まらず、ネットでそれらしい言葉を調べたりしていました。
翌日、もう一度知人と話したときに、ああ、自分の世界で自己分析していた、ということに気がつきました。
相手が聞いて欲しかったのは、その時の気持ちであって、そのことに対する分析ではないということ、その視点こそが上からものを見ているということに気がついたのでした。

自分の価値観の中で会話をしてしまうと、それが自分の欲や、思い込みであればあるほど、受け答えも安易になってしまうということが、今回わかりました。
私の経験値の中で答えていくと、ともすると先入観にはまり、決めつけてしまいます。そのくせが多く出ていたようです。

他者と一緒にいる時間は、自分の価値観の外にいるということを意識することが大事なのだと知ったのです。

この感覚は、きっと多くの人たちと関係性を持つことで、徐々に身につくことなのでしょう。私がその経験に疎かったのは、意見を言ってくださる人たちとの関係が薄かったこと、その関係を求めなかったことにあります。

多くの人たちが、これまでの生活の中で、何も言わずに去って行った事実を思い出しました。
きっと私は、鼻持ちならない性格を、晒していたのだと思います。
そして、教えてもらわなければ、その場では絶対気づかなくて、自分はいいコミュニケーションを取っていたと思うままでいたと思います。
自分では気がつけなかったという、大事なことを知ったのでした。

上から目線で人を見てしまうところは、私の無知な面を表しています。本当にそのことについて経験に基づいて理解しているならば、わかった風にいうことなど到底できないことなのですから。自分は何も知らないということを、人様にひけらかしていたということです。

とても冷静に、感じていたことを話してくれたそのかたに、とても感謝しています。

かけ違えたボタンは、自分から掛け直さないと、誰もただすことができません。
毎日会う方々の言葉を本当に聴けるように、努力しようと思った出来事でした。



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