2013年11月19日火曜日

介助について考えること その○

最近、思ったこと。
「もしかしたら、介助の方に100パーセント寄り添ってもらうこと(ペースをあわせてもらうとか、理解してもらうとか)を、私は求めていたのかも知れないな」
ということ。

たとえ無理だと知っていても、求め方としたら100パーセントだったのかも知れません。

最近、そんな自分に気がつきました。なにげにすべて合わせてもらうことを求めているなって。

たしかに、介助は「障害を持つ人の意志にそって、その人の生活をサポートする」のがお仕事なのですが。

意志にそうと言うことはとても曖昧で、人によって違うので、おこなうほうはイメージがつきにくい場合があること。
私が求めていたことは、すべての人が出来ることではなかったのかも知れないと言うこと。
この二つが気になりだしたのでした。

たしかに、「介助とは何か」を伝えることはとても大切なことだし、
それを伝えていかないと私の生活は壊れてしまうのだけれども。

伝えたことを理解されない場合に、私はその方の何をわかっていないのかということをかんがえなければいけないのかも知れないのでした。

伝わらなかった場合、
それが本当に今の私にとってものすごく大事なことなのか。
もしかしたらそこまで理解を得なくてもいいことなのかも知れません。

なんだか書いていて混乱してきました。
何が書きたかったのか。

20年こういう生活をしてきても、介助という概念に向きあいきれていないのかも知れません。

そう言うことを考え続けている今夜、テレビ番組からこんな言葉が。
「戦後シベリアで捕虜になった期間を、国からのお金で留学していたと考えることにした」

私は、なんだかこの言葉にヒントをもらったような気がしました。
問題とは関係ないけれど、お金をたくさん費やして頂いて、日々実習を受けさせてもらっている、という風に切り替えようと。

そしてこうやって悩むのも、いつかわかりやすい文章にしていくための課程だと思えばいいのかも。
文章に出来るように、こころンなかを平和にしていこうと思います。

全は一、一は全

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