今日、ある人と話していて、ふと思いました。
私は、いこごちのいい場所を選んではいないか。
成長できる場を選びたいと思いながら、実は受け入れてくれる環境、甘えさせてくれる環境を選んではいないか、と。
私が実家を離れて、一人生活を始めた時、介助についての考え方を、英才教育のように、支援団体から教わりました。
行きたい時にトイレに行くためには、好きな時にご飯を食べるためには、したいことをしたい時にするためには、介助で入る人の労働環境を整えることが必要。
この考え方は、この支援団体に出会わなければ、知ることはできませんでした。
互いの立場を考えること。
私は障害があり、そしてそれは世間が「重い」と判断するぐらい、自分ではできないことがたくさんあります。
だから、自分のペースで生きて行くためには、基本的な生活そのものを整えて行くためには、協力してくれる方がいつも必要です。
東京に移り住む前の、埼玉で一人暮らしした6年間は、他者の立場から物事を見るということのいい経験でした。
もしかしたらこの後の東京での経験も、埼玉で障害のない人たちと議論しながら、時には凹みながら知り得たことがあったから、とびこめて行けたのかもしれません。
もう今はあの場所に戻ることはないし、再会を望んではいないけれど、あの経験はありがたかったなあと思い、感謝の気持ちがあります。。
自己主張と要求は違う、と、ある人は私に話してくれました。
自分の生活を考えて組み立てているか、他人任せにして、要求ばかりしていないか、とてもきになると。
私も、自立生活をするときは、まず自分の生活を整えることから始めました、無意識でしたが。最初から特別、やりたいこともなかったせいかもしれません。とにかく自分の意思で生活を作って生きたかったんです。
生活する中で、もちろん今もうまくできているとは決して言えませんが、頼み方を知り、それぞれの個性を知り、自分の頭の中の世界と、人のお願いした時の現実の違いを知っていったのです。
無論、私はここまで理解できるまで、とてもとてもとても長い時間がかかってしまいました。多くの人とうまくいかず、多くの人を困らせ、時に傷つけてしまいながら生活を続けてきたのだと感じています。その中で、ずっと支えてくれた人たちがいたことを、忘れないで生きようと思っています。
居心地のいい場所がいけないというわけではないけれど、その居心地の良さを誰かに作ってもらっているばかりだとしたら、自分でも自分の心の置き場所を作ろうと前向きに考えていないとしたら、そしてそのことに周りは気づいているのに私自身が気づいていないとしたら、それは見直さなくてはいけないことかもしれないと今は思います。
どこであっても居心地よさは、最初からあるわけではないし、お互いに努力してお互いが一緒にいてもいいと思える場所を作って行くことだと思うから。